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時代は変わり、環境が変化する中。ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、どこへ行くべきなのか? [【再掲載】]

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【時代は変わり、環境が変化する中。ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、どこへ行くべきなのか?】


最近、いろいろと考えることがある。ネットが普及したことで、それまで情報発信の最大手といえたテレビが、いかに都合のいい情報だけを流していたか?が分かって来た。特に311以降。報道番組でさえ、商業主義であること。それは新聞も雑誌も同じだが、疑ってかからないと、ある種の人たちに利用されているだけだと思える。

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ここ数年、スマホについて考えていた。当たり前のように使っていたが、実は必要ないのではないか?と思えている。例えば、友人と喫茶店等で会うと、まずスマホをテーブルの上に置く。電話がかかってくると「ちょっと、悪い!」と電話に出る。急ぎの用ならいいが、聞いていると単なる友達からの連絡。なぜ、時間を裂き、交通費を使って新宿渋谷まで出て来た友人(私)と話しているのに、それを遮り電話に出るのだろう?

或は、複数で話していると、必ず誰かがスマホでメールやFacebookチェックをする。これも急ぎの仕事で、常に連絡があるというのなら分かるが、そうではなく。人の話を聞きながら、何かメールが来ていないか? ニュースはないか?とスマホをいじっているだけなのだ。

家族でテレビを観ながら食事する人たちはいる。しかし、友人と会っているとき、電話に出たり、メールやFacebookを確認するのはどうなのだろう? 何か優先順位を間違っていないだろうか? また、若い人たちは友達からメールをもらったら15分以内に返事をするという。でないと、友達関係がむずかしくなるからとか。或は、何かで知り合った人がよく「Lineで繋がってもらっていいですか?」と訊かれる。

これには背景がある。かなり昔に書いたが、今の日本人。若者だけでなく、異様なほど絆を求める。「友達」「仲間」であることを確認しようとする。それは無意識にアイデンティティの確認になっている。寂しさや孤独感の解消に繋げようとする。「こんなにたくさんの友達がいるんだ」という思いで自分の存在を確認。一昔前のプリクラも同じ。Facebookがこれだけ流通したのも同じ理由だろう。1000人友達がいる。と自慢するのも同じ理由だ。

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確かに、一人一人と連絡を取り合わなくても、**君はどーしている? ***ちゃんは今日も仕事か?と近況を知れるのは便利だが、いつの間にか、それも自己確認の強迫観念となり、一日に何度もFacebookを見てしまう。最初は便利からスタートしたメールやFacebookにいつの間にか振り回され、スマホが生活の中心になり、依存症になっている人が多いことに気付く。

その背景にあるのは不安感。1人ぼっちじゃないか? 私だけ置き去りになっていないか? 僕のこと誰も気にかけてくれてないのでないか? アイデンティティが確認し辛い時代。その不安を癒すのがメール。それをバージョンアップしたのがFacebook。Twitterも同じだ。「渋谷ナウ」とか意味もなくtweetするのも「私は渋谷にいるよー。私のこと。みんな忘れないでねー」という心のメッセージだと思える。

自分の存在を、理解、確認、してもらうための行為。スマホはそれを外出しても確認できるツールとして無意識に認知されたことで、普及し、流通した側面が大きい。もちろん、先に書いたことは潜在意識での話であり、それを意識している人は少ない。そして僕の説明もかなり乱暴であり「俺はそんなじゃねえよー」と反論したい人もいるだろう。しかし、人の根源的な欲求に「人からの認知」というものがあり、それを巧みに利用したのがFacebookなのだ。

Facebookによって「友達」が増えたように感じるが、現実の代償作用でしかなく本物の友達ではない。なのに多くの人は現実の「友達」と同じ対応やアプローチをし、求めててしまう。そこですれ違いが起き、互いが傷つく。起きなくていい問題が起こる。仮想現実の中に癒しを求め、さらに孤独感を増幅しているような気がする。

そんなことを書きながらも、僕自身もスマホ依存症になっているように思える。最初は映画宣伝のツールであり、書いた記事や情報の反応を知るために、頻繁に確認作業をしていた。が、考えてみると1時間おきに確認をする必要はない。その夜にまとめて見ればいいのだ。なのに気になって、何度もスマホを見てしまう。

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先日も書いたが、その記事執筆や情報発信に毎日4時間以上が取られている。映画宣伝は間もなく終了する。そして、いずれ書くが今回の宣伝活動を通じていろんなことを感じた。次のステップに上がらなければならないと思えている。そのために、今後も4時間も時間をネットに費やしていてはいけない。スローダウンして行かねば...と考えている。

そしてスマホを持ち歩き、いつでも連絡が着く。必要性が本当にあるのか?と感じ始めた。待ち合わせのときは便利だし、撮影前ならスタッフからの緊急連絡もあるが、通常はない。なのに、スマホを持ち歩くと、外出中に何度もネットを見てしまう。昔は雑誌や文庫本を持ち歩いて読んでいたのだが、今はスマホを見る。電車に乗っても漫画雑誌を読んでいる人はもうほとんどいない。

何か大きな力で、スマホという端末を与えられて身の回りや友達関係に執着することで、大切なものを見逃しているのではないか? 目を反らされているのではないか? そんな思いがあり、先日、スマホを解約した。そして、考えているのがFacebookの存在。映画宣伝の上ではとても有効だったが、いろいろ面倒なことも多い。

Facebookを有効活用しているつもりだったが、ふと気付くとFacebookに振り回されているのではないか? と思えて来る。このことはまた機会があれば書くが、どーも、日本人は機械によって大切なことを見失っているように思えている。それはまだ具体的には書かないが、物語のテーマにもなるので、あれこれ考えている。「向日葵の丘」を観てくれた方は何となく想像が着くだろう。

そんなことをあれこれ考えているのだが、時代は変わり、環境が変化する中、僕らはどこへ向かうべきなのか? 問われる段階に来ていると思える...。





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