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「天空の蜂」は原発を攻撃するという衝撃的な映画だが..... [映画感想]

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【「天空の蜂」は原発を攻撃するという衝撃的な映画だが.....】

「標的は原発」というセンセーショナルなキャッチコピーで興味を惹かれた映画「天空の蜂」をようやく観ることができた。「朝日のあたる家」で同じく原発を題材とした映画を作っている僕としては、どこまで踏み込んでいるか?関心があった。映画サイトの紹介では「大手映画会社がタブーに挑む」と見出しを出すこともあり、注目した。が、それほど踏み込んだ物語にはならないのではないか?とも予想をしていた。

すでに原発の問題点、事故の被害の凄惨さは報道されており、多くの人が知るところである。だが、次第に事故は風化して、多くの人が関心をなくし、それを待っていたかのように日本中の原発を再稼働を進める人々がいる。そんな時期に大手映画会社が原発の危険性を訴え、再稼働の妨げになるような映画を作るとは思えなかった。

その「天空の蜂」をようやく観たのだが、まず映画としてはドキドキハラハラとても面白くできている。手に汗握るとはこのこと。日本映画はこの種のエンタテイメントがうまくないのに、かなり面白い。ただ、注目の原発の扱い方。確かに原発の危険性は描いている。原発は上空からの攻撃に弱く。ボーリングのボールひとつ落とすだけで大惨事となると言われている。まして巨大ヘリコプターが落ちれば大変なことだ。

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その危険性を描きながらも、物語は原発を批判するのではなく、危険を見て見ぬ振りをする人々への批判へと展開する。さらに小学生のいじめ問題にスライド。次第に原発の危険性は物語が外れ、それを必死に守ろうとする原発職員たちと警察や関係者の活躍が描かれる。

この辺はバランスを取ったと思えた。311以降に原発は安全だ!といっても説得力がない。そして、危険なことは皆知っている。だから、危険性を描いても今なら原発を推進する人々は批判できない。でも、なんらかの圧力がかかって公開できない。宣伝できないということもある。そこで推進側も納得するように、心ある原発職員たちが活躍する物語も描いたのではないか?

もともと原作にあった部分かもしれないし、実際にも事故にならないように職員たちは命がけで安全を守ろうとしているだろう。しかし、それを描くことは「こんなに職員ががんばっているのだから、原発は安全だ」「前回は1000年に1度の津波だから事故ったけど、あんなにがんばる人たちがいるんだから、次は大丈夫だ!」と思う観客もいたかもしれない。

それに危険から守るという以前に、この1年以上、原発が全部止まっても電力危機にならなかったことを考えると、もともと原発は必要がない危険なものだることを多くの日本人が気付いている。なのに「こんなに職員は懸命に危険回避のために努力している」という物語を今、描く事にどういう意味があるのか?

その背景は原作小説が311以前に書かれたというところにあるだろう。原発の危険性を描きながらも、先に書いたように「原発は危険です。やめましょう!」という物語ではなく、テーマが逸れたように思えた「見て見ぬ振りをする人々」に対する批判こそが、原作のテーマだとしたら全てに筋が通る。

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その意味で311を経験した我々が、今、「原発の危険性」を警鐘されてもすでに痛感していることだし、タブーであった原発を扱った映画と思ってみると、実は原発問題ではない「見て見ぬ人たち」を考えるテーマであり、肩すかしを食う訳である。そして、映画作家も、その辺のテーマを深く描くよりエンタテイメントとして仕上げようとしたと思える。

僕は原発問題に関心があり、まだまだ皆で考えて行く必要があると思っているので、その辺が物足りなかったのだ。宣伝で「標的は原発」と謳っているのはやはり単なるアピールのためだったのだと、痛感した次第だ。ただ、言えること。311以前ではこの原作を映画化することはできなかった。ヘリが原発に突っ込むなんて設定は絶対に許されなかっただろう。

しかし、現代は違う。原発はとんでもなく危険ということを多くの人が実感している。だからこそ、この原作を映画化することができた。そして「見て見ぬ人たち」はまだまだ多いことは事実であり。小説のテーマである部分は考えねばならない。ただ、そのことが映画では強く描かれてはいない。その辺から大手映画会社にとって本当の意味での原発問題を描くことは今もタブーだと分かった。

ただ、この映画に「原発問題が描けていない」というのは当て外れ、もともとエンタテイメントとして作れた映画なのである。



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人の能力&思考を知る方法。映画の感想を聞くとよく分かる?! [my opinion]

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【人の能力&思考を知る方法。映画の感想を聞くとよく分かる?!】

映画製作でスタッフを集めるとき、注意していることがある。問題ある人をチームにいれないこと。だが、簡単な面接で相手を知るのはむずかしい。初対面では「オレは結構やり手ですよ! ははは」というようなアピールをする業界人がいるが、仕事をするとまるで駄目ということがある。が、その人の本質が分かるのには月日がかかる。分かる頃にはトラブルを起こしている。

なので初対面で相手を知るときは、よく「どんな映画が好きですか?」と訊く。タイトルを上げてくれれば、そのジャンルで趣味が分かる。アクション映画か? ラブストーリーか? SF映画か? コメディか? そこから趣味思考が分かる。それは当たり前だが、映画の感想を聞くとその人の思考レベル、洞察力、潜在意識も分かる!?

先に書いた記事でも、シナリオを読んでくれた映画プロデュサーが「どんな感想をいうか?」で、その人の読解力や想像力が分かる話をしたが、同じ方法論だ。「作品にリアリティがないんだよな」という批評をする人がいる。それを専門的に説明できる人はOK。「警察組織は捜査するときに基本的に2人1人組で行動し、所轄署は....」とかマニアな知識を披露してくれるのなら分かる。が、そうでなければ問題がある。「リアリティがない」という言葉をそのまま解釈すれば「嘘っぽくて現実味がない。取材をせずに、いい加減に描いている」という意味。厳しい目で見ているように思える。

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が、多くは「そんな奴いる訳ないだろう?」とか「そんなことありえないよ!」と安易にいうことが多い。なぜか? その言葉を使う人の多くは、自分が知らない事実や経験したことがない現実が出てくると実感できず「そんな訳ないだろう?」と感じる。外の世界に興味はない。だから、想像もしない。

自分の経験値にないこと、つまり自分の知らない事実と出会うと「リアリティがない」というのだ。だから、脚本を映画関係者に読んでもらっていたデビュー前。その言葉が出て来たら「この人の感想は参考にならない。物語を十分に想像できていないのだから」と判断した。

そして、その種の人は「自分は映画関係者だ。素人じゃないぜ! という自負があるのだが、あまり努力をせず、勉強していない人が多い。意地悪な分析だが、言葉にはその人の背景や考え方まで出てしまう。そんなタイプ。映画ファンにも結構いる。「リアリティがない」と同じようによく使う言葉に「突っ込みどころが満載」というのがある。

さすがに業界人でこれをいう人はほとんどいないが、その言葉を使う人は洞察力がないことが多い。「突っ込みどころ」というのは、矛盾点のことを指す。「何でそうなるの?」「論理の飛躍ではないか?」「整合性がない」という意味だ。確かに安易に作られたドラマにはその種の展開が多く、シナリオ段階でしっかりと考えていないことがある。

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ただ、その場合は「心理展開に無理がある」とか「ストーリー展開の飛躍が多い」等の言い方がある。それを「突っ込みどころ満載」という。だが、その人が指摘した映画を見ると「突っ込みどころ」ではなく、その人が展開を理解できていないだけのことが多い。背景を把握していないとか、伏線を見落としているとか。そのためにストーリー展開が分からなくなっているだけ。

もちろん、テンポの早い映画や複雑な設定の物語だと付いて行けないことや「え?  何でこうなるの」と思うことがある。だが、そこで「僕は大事な伏線を見落としたのかな?」とか「背景をよく理解できていないかったのか?」と自分の問題点を顧みるものだが、「私が理解できないのは、ストーリーに問題があるからだ」と安易に解釈していること。それが問題なのだ。

さらに「突っ込みどころかが満載」=>「満載」という言葉から、そのような矛盾点がたくさんあるという指摘。学生映画ならいざ知らず、プロの映画でそんなミスがたくさんある映画はやたらとない。「プロの作品なのだから、もしかしたら素人の僕が理解できていないだけか?」と思わずに「満載」といってのけるのは「俺はプロの問題点を指摘できるほど鋭い」という意識を持っているからだ。

だが、この種の人はたいていの場合は「見る力」が低い。映画作りの経験がある訳でもないのに、素人の自分が「優れている」と思い込んでいる。自分の能力や言動を顧みようという意識がない。そして事実ではないことを思い込みやすい性格でもある。オタクな映画ファンに多いタイプ。

映画を上から見下ろしていて、勘違いしている人が多い。映画レビューを見れば、これらの言葉をよく見かける。が、彼らは映画の本質や肝心な部分を見落としていることが多い。映画ファンというより、作品を否定することで自分の優秀さをアピールするためにレビューを書いている感がある。

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あと、こんな人もいる。「この映画の結末は途中で分かった。あの程度じゃ駄目だよ」的な人。しかし、これも先の2つと同じ落とし穴がある。「自分だけ、オチが分かった」と思っているのだが、ほとんどの人が分かっていることがある。「他の奴は馬鹿だから気づかないが、オレは優秀だから分かった」的なニアンスがある。

このタイプは人に認められることが少なく、それでいて自分の能力は高い。なのに....と不満を抱えているタイプが多い。しかし、どんな分野でも何かを作ったことがある人は、人の作品を安易に批判しない。また、仕事への愛があれば、上から目線で批判はしない。

そして洞察力のない人、想像力のない人を映画製作に参加させると、いろんな意味で足をひっぱることになる。他のスタッフが理解できているのに分からない。意味のない努力をし、回りに迷惑をかける。自分の問題点に気付かず「シナリオが悪い、演出が悪い!」と言い張る。結果、トラブルとなる。だからチームに入れてはいけないのだ。ちょっと意地悪な分析だが、分かりやすいので紹介させてもらった。

だから、最初に会ったときに映画の話をする。「どんな映画が好きか?」聞き、特定の作品の感想を訊く。そこで先の言葉が出て来たら要注意。これは映画スタッフの話だけではない。映画を「見る力」も、世間を見る力も同じ。洞察力のない人は空回りしてトラブルを起こす。自分の非に気づかず、上から目線でまわりを批判して、誰かの責任を追求し始める。

学歴や出身地で人の力は分からない。だから、僕はそんな方法でまず、人の力や思考の仕方を知ることにしている。

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読みたい本。時間なくてなかなか読めない。 [2015]


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読みたい本。時間なくてなかなか読めない。



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【人はなぜ、他人のことをあれこれ言いたくなるのだろう?  そして大切なことを見失っているのではないか?】 [my opinion]

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【人はなぜ、他人のことをあれこれ言いたくなるのだろう? 
そして大切なことを見失っているのではないか?】

ここ数ヶ月。忙しくて食事の時間も取れないことが多かった。移動中にコンビニで菓子パンを買って歩きながら食べるということが何度もあった。先日、カレーパンを食べながら歩いると、80歳前後の腰の曲がったおばあちゃんが前方からやってきた。僕の前で立ち止まり、笑顔でこちらを見てこういった。

「パン食べてるの?」

会ったこともない人だし、ちょっと不審に思ったがお年寄りだし、答えた。

「はい…..」

すると、そのおばあさんは急に険しい顔をしてこういう。

「だから、そんなに太るんのよ!」

と言って立ち去って行った。何なんだ? あの婆さんは????? 想像するにお婆さんは「この人は座らずに食事をしている」と思った。しかし、僕が座って食事をする時間がないとは考えない。座って食事をするだけでなく、歩いているときも食べていると考えた=>賎しい=>だから太るんだ=>一言いってやろう!という理屈だったのだろう。だとしても、見知らぬ他人にそんなことをいうだろうか?

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と思っていると、自転車に乗ったおばさんが通りかかり、目の前で止まる。「あんた。あの人知ってるの?」そう聞かれた。「いいえ。今、会ったばかり….」そういうと、おばさんは「あの人。町内でも有名なのよ…」といい、ため息をつくと自転車を漕ぎ去って行った。

何なんだ??? 想像するに、あのお婆さんは見知らぬ他人にやたら話かけては、あれこれ顰蹙を買うことをいうことで有名な人なのだろう。耄碌しているのかもしれない。

詳しいことは分からないが、耄碌したから見知らぬ人にまで余計なことをいうのか? 或いは耄碌したから思ったことを誰彼構わずにいってしまうのか? どちらかだろう。しかし、近所のおばさんたちの立ち話を聞いていても、「**さんがどうした」とか人の噂や批判ばかりしている。基本、人は他人のことをあれこれ言うのが好きなのだろう。

Facebookでも同じ。僕が書いた記事に対して、あれこれ首を傾げるコメントを書き込んでくる人たちがいる。「目の手術をしたので化膿止めのため毎日、目薬をささねばならない」と書くと、こんなコメント。

「オレ、目薬嫌いなんだよね〜」

ーはあ? あんたに目薬させとは言っていない!或いはこんなの

「目薬はいけない!さしては駄目だ」

これは一般の目薬についてよく言われることなので意味は分かる。が、記事を読めば手術後の化膿止めであることは分かる。が、その人は文章を読まず、「目薬をさした」という部分だけ見て「駄目だ」とコメントしたのだ。

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2人ともFacebook友達ではあるが、面識はない。ネット上で会話したこともない。なぜ、親しくもない相手にあれこれ注意を促したり、必要のないことを言って来るのか?何度も紹介したが、こんなコメントも以前は山のように来た。

「野菜が足りませんよ!」

「もっと運動した方がいいですよ」

「タンパク質が足りませんよ」

—大きなお世話だ! もちろん、僕の健康を気にしてくれているのは分かる。が、当時も多忙で野菜を食べる余裕なんてない。駅そばがランチてなことが多かった。そんな事情も説明しているのに「野菜が足りません」「サラダを食べましょう!」と連日コメント。「品川駅のどこでサラダ食えるか教えてくれ!!」といいたくなる。会ったこともない人たちが毎日のように、そんなことを書き込むので、一時期「プライベートなことは今後書かない!」と宣言したこともある。

僕が監督したある映画がDVD化される予定はない、と記事に書いたときもそうだった。何十人もが「だったら、***に頼むといいですよ」「台湾で作ると安くできますよ」といろんなアイディアが寄せられた。が、それらのコメントは100%当て外れ。

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何より、DVDのプレスができないと書いたのではなく、メーカーから発売できないという旨を伝えたのに、「資金がないからプレスできない」と勘違い。おまけにコメントをくれた全員が業界の人ではなく、「よく分かりませんが***社に頼んだらどーですか?」とか自分の知らない分野のことに、あれこれコメントしていた。

これも「親切」「好意」と解釈することはできる。が、自分の知らないこと。専門外のことを想像でアドバイスすることに意味があるだろうか? その上、アイディアを募集した訳でない。さらには記事の意味を理解していない。問題点ではないことにコメントする。決して悪い人たちではない。少しでも知恵をしぼって助けになれば!という思いで書いてくれたのだとは思う。が、同時に、他人のことを、専門分野でもないのに、あれこれ言いたくなる人の心理が働いてはいないか?

つまり、先のお婆さんも、近所のおばさんも、Facebook友達も皆、同じで、自分がよく知らない人に対しても、あれこれ口出ししたい!という思いがとても強いのだ。それを指摘すると「親切で言って上げてるのに失礼な!」と怒り出したり「だったら勝手にしろ!」と逆切れされたり。意味が分からない。

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なぜ、人はあれこれ他人のことに口出しするのか? 困ってもいない人にアドバイスしたがるのか? 専門外なことまで分かったようなことを言いたがるのか? 映画の世界で仕事をしだしてからも、飲み会に行くと、人の噂話しかしない会が多い。

「***監督は才能ないのに何で毎年撮るんだ?」

「役者の***はもう駄目だ。仕事がなくなるよ!」

とか、そんなことばかりいう飲み会が結構あって、近年は忘年会にも出ない。成功している人や失敗した人たちの仕事ぶりを分析、自分のプラスに繋げるのならいい。が、あれこれ聞きかじったことを、あれこれ批判していても何のプラスにもならないと思うのだが……、

ふと気づくとFacebookも似たような一面のある世界だと思える。一時に比べて、その手のコメントは激減したが、僕自身もその手の人たちの輪の中に陥っているのではないか? と思うことがある。

大切なのは何か? 日常に忙殺され、自分を顧みる余裕もなく。隣の芝生をうらやみ、嫉妬して、批判し、否定することだろうか? そうやって憂さを晴らすことではないはずだ。大切なことは何か? それを考えなければならない。

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朝日新聞 2015年10月20日 意見広告 [2015]



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朝日新聞 2015年10月20日 意見広告



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時代は変わり、環境が変化する中。ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、どこへ行くべきなのか? [my opinion]

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【時代は変わり、環境が変化する中。ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、どこへ行くべきなのか?】


最近、いろいろと考えることがある。ネットが普及したことで、それまで情報発信の最大手といえたテレビが、いかに都合のいい情報だけを流していたか?が分かって来た。特に311以降。報道番組でさえ、商業主義であること。それは新聞も雑誌も同じだが、疑ってかからないと、ある種の人たちに利用されているだけだと思える。

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ここ数年、スマホについて考えていた。当たり前のように使っていたが、実は必要ないのではないか?と思えている。例えば、友人と喫茶店等で会うと、まずスマホをテーブルの上に置く。電話がかかってくると「ちょっと、悪い!」と電話に出る。急ぎの用ならいいが、聞いていると単なる友達からの連絡。なぜ、時間を裂き、交通費を使って新宿や渋谷まで出て来た友人(私)と話しているのに、それを遮り電話に出るのだろう?

或は、複数で話していると、必ず誰かがスマホでメールやFacebookのチェックをする。これも急ぎの仕事で、常に連絡があるというのなら分かるが、そうではなく。人の話を聞きながら、何かメールが来ていないか? ニュースはないか?とスマホをいじっているだけなのだ。

家族でテレビを観ながら食事する人たちはいる。しかし、友人と会っているとき、電話に出たり、メールやFacebookを確認するのはどうなのだろう? 何か優先順位を間違っていないだろうか? また、若い人たちは友達からメールをもらったら15分以内に返事をするという。でないと、友達関係がむずかしくなるからとか。或は、何かで知り合った人がよく「Lineで繋がってもらっていいですか?」と訊かれる。

これには背景がある。かなり昔に書いたが、今の日本人。若者だけでなく、異様なほど絆を求める。「友達」「仲間」であることを確認しようとする。それは無意識にアイデンティティの確認になっている。寂しさや孤独感の解消に繋げようとする。「こんなにたくさんの友達がいるんだ」という思いで自分の存在を確認。一昔前のプリクラも同じ。Facebookがこれだけ流通したのも同じ理由だろう。1000人友達がいる。と自慢するのも同じ理由だ。

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確かに、一人一人と連絡を取り合わなくても、**君はどーしている? ***ちゃんは今日も仕事か?と近況を知れるのは便利だが、いつの間にか、それも自己確認の強迫観念となり、一日に何度もFacebookを見てしまう。最初は便利からスタートしたメールやFacebookにいつの間にか振り回され、スマホが生活の中心になり、依存症になっている人が多いことに気付く。

その背景にあるのは不安感。1人ぼっちじゃないか? 私だけ置き去りになっていないか? 僕のこと誰も気にかけてくれてないのでないか? アイデンティティが確認し辛い時代。その不安を癒すのがメール。それをバージョンアップしたのがFacebook。Twitterも同じだ。「渋谷ナウ」とか意味もなくtweetするのも「私は渋谷にいるよー。私のこと。みんな忘れないでねー」という心のメッセージだと思える。

自分の存在を、理解、確認、してもらうための行為。スマホはそれを外出しても確認できるツールとして無意識に認知されたことで、普及し、流通した側面が大きい。もちろん、先に書いたことは潜在意識での話であり、それを意識している人は少ない。そして僕の説明もかなり乱暴であり「俺はそんなじゃねえよー」と反論したい人もいるだろう。しかし、人の根源的な欲求に「人からの認知」というものがあり、それを巧みに利用したのがFacebookなのだ。

Facebookによって「友達」が増えたように感じるが、現実の代償作用でしかなく本物の友達ではない。なのに多くの人は現実の「友達」と同じ対応やアプローチをし、求めててしまう。そこですれ違いが起き、互いが傷つく。起きなくていい問題が起こる。仮想現実の中に癒しを求め、さらに孤独感を増幅しているような気がする。

そんなことを書きながらも、僕自身もスマホ依存症になっているように思える。最初は映画宣伝のツールであり、書いた記事や情報の反応を知るために、頻繁に確認作業をしていた。が、考えてみると1時間おきに確認をする必要はない。その夜にまとめて見ればいいのだ。なのに気になって、何度もスマホを見てしまう。

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先日も書いたが、その記事執筆や情報発信に毎日4時間以上が取られている。映画宣伝は間もなく終了する。そして、いずれ書くが今回の宣伝活動を通じていろんなことを感じた。次のステップに上がらなければならないと思えている。そのために、今後も4時間も時間をネットに費やしていてはいけない。スローダウンして行かねば...と考えている。

そしてスマホを持ち歩き、いつでも連絡が着く。必要性が本当にあるのか?と感じ始めた。待ち合わせのときは便利だし、撮影前ならスタッフからの緊急連絡もあるが、通常はない。なのに、スマホを持ち歩くと、外出中に何度もネットを見てしまう。昔は雑誌や文庫本を持ち歩いて読んでいたのだが、今はスマホを見る。電車に乗っても漫画雑誌を読んでいる人はもうほとんどいない。

何か大きな力で、スマホという端末を与えられて身の回りや友達関係に執着することで、大切なものを見逃しているのではないか? 目を反らされているのではないか? そんな思いがあり、先日、スマホを解約した。そして、考えているのがFacebookの存在。映画宣伝の上ではとても有効だったが、いろいろ面倒なことも多い。

Facebookを有効活用しているつもりだったが、ふと気付くとFacebookに振り回されているのではないか? と思えて来る。このことはまた機会があれば書くが、どーも、日本人は機械によって大切なことを見失っているように思えている。それはまだ具体的には書かないが、物語のテーマにもなるので、あれこれ考えている。「向日葵の丘」を観てくれた方は何となく想像が着くだろう。

そんなことをあれこれ考えているのだが、時代は変わり、環境が変化する中、僕らはどこへ向かうべきなのか? 問われる段階に来ていると思える...。


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他人の批判で「私はダメだ」と思ってはいけない。自分のいいところを探せ!(後篇) [my opinion]

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20年ほど前。脚本家をめざし、バイトしながらシナリオを書いていた頃。映画業界の人に、特にプロデュサーにシナリオを読んでもらうと、ある言葉で批判されることが多いのに気付いた。3つある。

1つめは「リアリティがない」

言い換えれば「現実味がない」「ウソっぽい」ということだ。最初はそう言われて、どうすればリアリティが出るんだろうと思い悩んだ。ところが、カタギの友人や映画ファンにも読んでもらうと「リアリティあると思うよ」という感想が多かったりする。

いろいろと考えて、物語にリアリティがないのではなく。そのプロデュサーに想像力がないのではないか?と思うようになった。例えば年配の人なら最近のSF映画とかは観てない。当時で言えば、せいぜい「スターウォーズ」止まり。だから、リアリティを感じないのではなく、その種の映像や設定を想像することができないだけ。という気がして来た。

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2つ目が「ひねりが足りない」

つまりどんでん返しや意外な展開がないというのだ。確かにその種の物語はインパクトがあり、観客を唸らせたりする。が、一時期、ハリウッド映画のホラーはもう終わったと思わせて、まだ怪物は生きていた!ワーーという展開が多かった。最初は驚いたが、次第にまたか?!と思うようになる。

また、ミステリーでも「意外な犯人」とか「驚愕の結末」とかいうキャッチコピーで観て面白かったものはない。作り手も最後に驚かそうとして、意外な人物を犯人にするのだが、そんなキャッチを伝えば観客は最初から一番犯人ではないキャラを無理やり犯人だと推理してしまう。結果、物語を捻って、驚きを作ろうとしても、面白くならないことが分かって来た。

にも関わらず、シナリオを読んだプロデュサーたちはハリウッド映画がもうやらなくなった、その種の手法を求めている思えた。もっと言えば、一番大事なの物語自体。捻ることが大事なのではなく、いかなる展開を見せるか?だ。もしかしたら、その人たちは物語のよし悪しが分からない。だから、意外な展開、ひねりがあることが面白くなると安易に考えていると思えてきた。


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3つめが「よくあるパターンだ」

この批評にも最初は悩んだ。どうすれば、これまでと違うものが出来るのか? 確かにオリジナリティは大事だ。しかし、完全に新しい最初から最後まで斬新な物語なんてあるのか? 刑事ドラマは刑事がいて、事件が起き、捜査が始まる。すると、プロデュサーは「よくあるパターン」と否定する。

では、かつてない展開の物語であればヒットするのか? 友人でかなり前衛的なドラマのシナリオを書いた奴がいたが、こう言われた。「よく分からない」新しいものを書けば「分からない」定型で行くと「よくあるパターン」という。彼らの思考はどうなっているのか? 実は脳の性質と関係する。脳は何かを認知するとき、過去の記憶と照合して、それを確認する。

つまり、刑事ドラマであれば、「ダーティハリー」なのか?「リーサルウエポン」なのか? 「ダイハード」なのか? それらを当てはめてみる。その結果、似たところがあれば「よくあるパターン」と批判。照合できない場合、つまり斬新な物語である場合は比較できないので、認知できず「よく分からない」と結論する。

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どちらにしても、彼らは作品を認めることはない。そういう人に限って「よくあるパターン」という。その枠でくくれば刑事映画は全て「よくあるパターン」だ。主人公のキャラが違うとか、犯人が個性的だとか、その程度の違いなのだ。が、そこまで読み込める人はなかなかいない。

以上の3つの言葉「リアリティがない」「ひねりが足りない」「よくあるパターン」これはどんなシナリオや映画に対しても言える。そして、一見、それなりの批評をしているように聞こえるが、説明した通りで見る目のない人がいいがちな言葉だと気付いた。言い換えると「私は想像力がありません」「僕は物語の本質は見抜けません」「俺は見る目がありません」という意味にさえ思える。

それで楽になった。シナリオを読んで否定されても、その種の言葉を使う人であれば「ああ、この人に読む力はない。今後はシナリオを見せても意味ないな」と判断できた。そう、シナリオでも、原稿でも何でも、読んでもらうのは力量を判断されるので、緊張するし、批判されればショックを受ける。が、読む方も試されているのだ。読む力、想像力がない人は正当な批評はできず。自らの力のなさを露呈してしまう。

映画界には読む力がある人が少ない。そう思えたので、映画以外の世界で働く人にもシナリオを読んでもらった。念のために補足するが「俺の素晴らしいシナリオを理解できる奴がいない!」というのではない。当時、僕が書いていた作品は未熟ものである。しかし、正当な批評をしてもらわないと、何が足りなくて、何が悪いか? どこがいいのか?を分からない。客観的に観て指摘してもらってこそ、実力は伸びるのだ。

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その後、出版、音楽、マスコミ、そして映画ファンの友人などにシナリオを読んでもらうようにした。帰国から5年後に脚本家デビュー。その後、監督した映画4本全てのシナリオは僕のオリジナルである。「太田監督の映画は毎回泣ける!」と多くの方が褒めてくれるが、デビュー前は否定の連続だった。今思うと、業界のプロデュサーたちに全否定されたのだから「僕にシナリオは無理だ」と諦めていてもおかしくない。

ただ、彼らの言葉の全てを受け入れなかったこと。そして批評をよく考えると、読み手に想像力がない、新しいものを理解できない。それに気付かず、上から目線でものをいい。自分の趣味と客観的判断をごちゃまぜにしている人たちだと気づきいた。そんな人たちの言葉を信じる必要はないと思えたことが幸いした。

同じことは他の業界でも言えるだろう。「才能ないんじゃない?」「よくあるパターンだよ」「リアリティがないんだよね」そんな言葉で新人たちを否定する人は多い。いや、業界に限らず。想像力がない人、現実を知らない人ほど、安易に人を批判し、他人を否定しているところがある。人の言葉に振り回されてはいけない。自分のいい部分を探し、延ばすことで道は開けるだから。


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【他人の批判で「私はダメだ」と思ってはいけない。自分のいいところを探せ!】(前篇) [my opinion]

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もう、20年ほど前になるが、アメリカ留学から戻り、映画監督デビューを目指してシナリオを書いていた時期がある。自分で考えたオリジナル・ストーリーをシナリオに。まだ、パソコンもない時代なので、原稿用紙に手書き。

夜、アルバイトを終えて帰宅。朝まで執筆。昼前に起きてバイトへ。という生活をしていた。が、シナリオを読んでくれる業界の人は少なく、読んでもらっても全否定の批評が返って来た。

最初の頃はショックで「やはり、僕は脚本家に向いていないのか...」と落ち込んだ。でも、何度もシナリオを見てもらっていると気づいたことがある。まず「才能ないんじゃない?」という人がいた。

日本の映画学校にいたときもそうだったが「俺、才能あるのかな?」とか「あいつは才能あるよ」という言い方をする者が多かった。ただ、彼らの言葉を集約すると「才能」があれば脚本家や監督になれるというもの。

「俺には才能があると信じたい」

そういって頑張る友人もいた。が、多くは「努力」をせず「才能」があるはずだから、やっていけるという発想。それは違うだろう。「才能」は「超能力」ではない。何の経験も努力もなくして感動できる物語が作れるはずはない。と僕は考えていた。

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あとあと正解であることが分かる。その話は以前に書いた。現在、映画監督として仕事をし、様々な業界で活躍する第一線のアーティストとお会いすると、まさにそのことを痛感する。「才能」なんてない。「センス」や「素質」を持つ人が物凄い努力をして素晴らしい作品を作るのだ。

話を戻し、当時から「才能」という言葉を使う人は胡散臭いと思えた。注意して聞いていると、そんな人は自分で何かを作ったことのない人が多い。そして「才能ないんじゃないの?」という人の多くは、僕が書いたシナリオに「魅力や興味を感じていない」という意味であることが分かってきた。

「シナリオがおもしろくない」というのは分かるが、作家に対して「才能」がないというのは、クリエーターとして根本的な否定。アーティストを目指す人たちは大いに傷つくだろう。

しかし、その人は「自分の趣味に合う、面白いシナリオがあれば仕事に結びつける」要は「趣味が合わないからダメ」ということ。なのに「才能がない」という言葉を無神経に使っているだけだと分かって来た。最初は業界の人に全否定された....と落ち込んだが、背景が分かってくると気が楽になる。

そして多くの業界の人にシナリオを読んでもらっていると、否定する人が共通して使う言葉があることも分かってきた。もちろん、僕のシナリオは大したものではない。否定、批判されて当然だ。が、批評を聞いていると「あれ?」「何で?」というものが多かったのだ。

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一般の人が映画を見て「なんか詰まらない!」「大したことない!」と批判するのは自由。だが、映画業界で仕事する人が同じレベルの批評をするなら問題だ。なぜ、詰まらないのか? 何がダメなのか? それを分析し、テーマを推察して、それに従って作品が成功した、失敗したを判断。言葉にすることが、彼ら彼女らの仕事なのだ。

旅行に例えると「沖縄に行きたい!」と言っているのに「だったら、電車で行くのが早いわよ」とアドバイスしたり。あるいは「北海道に飛行機で行きたい!」というのに「それじゃ九州へは行けないよ」と批判する。

つまり目的地(テーマ)がどこか?を把握しないと、批判もアドバイスもできないのだ。映画も同じ。テーマを把握した上で、それが描けているか?を判断するのが本来の批評。それができない人が業界には多いこと分かって来た。

「才能ないと何度も言われたけど、実は見る目がない人が多いんじゃないか?」

次第にそう思えて来る....。そんな人たちの批判を真に受けて、落ち込んでいてはいけない。プロだろうが、ベテランだろうが、業界の大手で働く人だろうが、当て外れな批判をする人たちの言葉を受け入れても、何らプラスにならない。そのことが分かって来た....。

(つづく)


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「朝日のあたる家」の太田監督の新作「向日葵の丘」予告編ロングバージョンを配信。 [向日葵の丘]



「向日葵の丘」予告編ロングバージョンを配信。

この数日。予告編を編集していた。映画が公開されたあとに配信されるタイプのもの。公開前は「ここぞ!」という場面は予告編にはいれない。80年代の角川映画のように、泣ける感動場面だけを抜き出して予告編にすると、本編を見たときに感動できないからだ。

しかし、「向日葵」公開から間もなく3ヶ月目に入る。観たい人はもうかなり観てくれている。そこで名場面を多めに入れたロングバージョンの予告編を作ってみた。ハリウッド映画でも、この時期になると、その種のものを公開する。

それによって、先の予告を観ただけは「観たい!」と思わなかった人も興味を持ってくれる。それとすでに観た人も感動場面を再見して「もう一度、観たい!」と思ってもらうのが目的。

それでもまだ予告編で未公開の感動シーンはあるし。紹介する涙の場面も一部に過ぎない。映画館で観てもらえれば、感動してもらえる。その予告編。昨夜、テスト的に配信したら大好評。
完全版を本日、配信。よろしくお願いします。

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ランチ [2015]

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 ランチ

 いつもと違うメニューにしてみた。

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