So-net無料ブログ作成
検索選択
my opinion ブログトップ
前の10件 | -

【詰まらぬ批判に心を痛める必要はない。声なき声があなたを応援している】 [my opinion]

12313993_938546332886338_7214302440103745272_n.jpg

【詰まらぬ批判に心を痛める必要はない。声なき声があなたを応援している】

Facebookやブログをやっていると、いろんな人からコメントやメッセージが来る。前も書いたが、Facebookの場合。友達が2000人を超えたあたりから、おかしなコメントや意味不明の攻撃が出て来た。これは2000人いれば、何人かのおかしな人がいるということなのだろう。

 記事を読まずに、タイトルだけ見て、反論をしてくる人なんかもいる。以前「原発はすでに収束したというある女性」というタイトルで記事を書くと「男性だって、そう思っている人は大勢います。女性蔑視です!」というコメントが来た。

タイトルをよく読めば分かるが「ある女性」と書いてあるように、ある個人についての記事であり、女性の全体が、或いは多くの女性が「原発はすでに収束している」と思っている記事ではない。さらに記事を読めば、その女性についての詳しい記述もある。それを読まずに、タイトルの意味もしっかりと考えず、早とちり「男性でもそんな人は多い!」と批判してきたのだ。

記事を読んでも内容を把握せず、これまた勘違いして反論して来る人もいる。先日アップした記事「人の能力&思考を知る方法。映画の感想を聞いてみるとよく分かる?!」というタイトルで、映画の感想を聞けば、その人の洞察力や考え方が良く分かるという話を書いた。それによって、その人が問題を起こす人か? ものごとをちゃんと見てる人か?を判断できる。「突っ込みどころかが多い」とか「リアリティがない」というような映画評をする人は問題があるという内容だ。なのに、こんなコメントが来た。

「客が上から物言うは道理。観せてやってる訳ではない限り…興行は辛抱が要る生業…プロでも無い奴は論ずるな!は老婆心ながら尊大な印象」「自分は監督だ。文句をいうなという奢りを感じました。自重された方がいいですよ。それでは人を感動させる映画など作れませんよ!」

IMG_4640.jpg

はあ? 何でそうなるの? コメントをくれた人たち。あきらかに勘違いしている。記事で指摘したのは一般の映画に対する批評から、その人の洞察力を探るというものであり。映画を批判はいけないというものではない。まして、「文句をいうな」てな記述はしていないし、思ってもいない。僕が書いたことが全く伝わっていない。つまり、コメントをくれた人は「この監督は自分がプロであるので、一般の人が映画を批評することに否定的。客が上からものを言うのは当然のこと。それを批判するあなたは尊大であり、傲慢ですよ」と僕に注意を促しているのだ。

この記事です=>http://aozoraeiga.blog.so-net.ne.jp/2015-11-18-11
(試しに読んでみてほしい。「プロでない者は論じなる」というのが趣旨ではないこと。すぐに分かる)

んーー全く、書いてもいない、思ってもいないことを「あなたのために、注意しておきます」てなニアンスでコメントしてきた訳だ。そもそも、僕は批評は自由だと思っている。誰が何をいおうと構わない。ただ、その映画の本当に意味やテーマを見抜けず、上っ面だけで判断している人が多い。さらには、深い部分を理解できていないのに、本質を分からないことに気づかず。当て外れな批判をして悦に浸る映画ファンというのも多い。結局、その種の人は洞察力や物事を把握する力が低いのだ。

なので、映画の感想を聞けば、その種の能力が分かるという記事。「批判するな」とか「プロでないものは論じるな」とは書いても、思ってもいない。いってもいないことをコメント主は「尊大だ。傲慢だ」と批判する。つまり、そのコメントをくれた人もまた、見た映画を勘違いな批判する洞察力のない人たちと同じで、文章を正確に把握できず、勘違いな批判コメントをしてきた訳である。

何とも分かりづらく面倒くさい説明をしたが、そんなふうに書いてもいないことを「親切心」を持って注意してくる方もいる。コメントを読むと決して悪意はない。とても真面目に僕のことを心配して「映画監督をやってる人なのに、これではいけない。注意して上げないと!」というニアンスを感じる。以前、その種の人に誤解があることを返信したことがあるのだが、いずれからも返事はなく。或いはさらなる誤解を呼び、より強い勘違いな批判が返って来た。

10628401_702906243117016_2690420820435524618_n.jpg

それ以降は無視している。Facebookで繰り返し批判コメントしてくるようなら「友達」から削除する。が、この種の人たちは一体、どんな生活をし、どんな思考をしているのか?興味がある。あるとき、調べてみたのだが、決して頭のおかしい人たちではなく、通常の生活をしていた。決まった仕事を持ち、まじめに働いている。性格も温厚。

ただ、熱いところがあり、思い込んだらまっしぐら!な性格。言い出したら聞かない。「この監督は分かってない。俺が注意して上げないと!」とコメントをしてきたようだ。つまり、「自分は正しい」と信じ込んでいる。憎めないが厄介。関わると、時間も労力もかなり取られる。

僕が現在、勉強中の「ボーダーライン」とは違うし、病気ではない。そして、近い部分を持った人は多い。Facebook上でも人が書いた文章を読むと「何、偉そうに!」とか「そうとは限らないだろう?』と思う人も多いはずだ。が、その多くはわざわざ批判のコメントを書かない。それを書くという「労力」はいったいどこから来るのか? 正義感とかまじめさ。或いは「俺がいって上げないと!」という義務感や「思いやり」(?)だろう。

そんな人たちから頻繁にコメントやダイレクトメッセージが来るので、ときどきネットはもう止めようか?と思うこともある。当て外れの文句を言われるために記事を書くことに意味があるのか?と思う。が、実は、僕の記事を読み、感動したり、納得してくれたりする人も多いこと。あるとき知った。記事を楽しみにしてくれている人も数多くいるのだ。

11986588_895191217221850_5984930326016044033_n.jpg

ただ、その人たちは賛同のコメントはくれない。「この意見は凄くよく分かる。賛同したい」「んーなるほどなー気付かなかった!」と思い「次回も楽しみだ!」と完結する。だから、コメントはしない。それに対して先のようなタイプの人は「一言いってやろう」「この人分かってないわ」と時間を費やし、労力をかけてコメントしてくる。

なので、僕の方は批判や中傷コメントばかりが目につく。けど、実はそうではない。サイレント・マジョリティがいて、多くの支持者がいること。以前に気づいたのだが、その話を最後にする。「もう、Facebookは止め!」と思ったとき、一通のコメントをもらった。

「いつも記事を楽しみにしています。監督の文章には気づかなかった指摘や情報があり。毎回、なるほどと思います。でも、今までコメントしたことはありません。が、Facebookをやめるかも?との記事を読み残念です。いろいろご事情もあり、心ない批判も多いことも聞いております。続けてくださいとは言えませんが、またFacebookを再開されること楽しみに、お待ちしています」

もう、何年か前になるが、そんなコメントをもらい、あーそういう人もいるのだと思った。人は見えるものに囚われ、悩んだり、傷ついたり、絶望したりするけど、実は多くの声なき声が応援、支持してくれていて、批判否定してくるのは極々一部の人たちでしかないこと。気づいた。それから「友達」はさらに1000人増えて3000人近くなる。これは僕だけの話ではないだろう。きっとあなたも同じ。多くの人があなたを見つめている。声は出さないがあなたを応援している。だから、詰まらぬ批判や中傷は受け流そう。そんなふうに思えている。


CZyx96GUcAAtPax.jpg-large.jpeg
nice!(1)  コメント(0) 

新興宗教の女性信者に勧誘されたときのこと?① [my opinion]

IMG_2596.jpg

  学生時代。1980年代だが、駅前で友達を待っていると20代の女性2人に声をかけられた。東京では当時、いかがわしいアンケートで声をかけられることが多く、そのまま近くの事務所に連れて行かれ、怪しげな商品を買わされるという事件が頻発していた。「街角で声をかけてくる奴は怪しい!」だが、そのときは若い女性2人。普通の女学生風なので話を聞いた。

 それが新興宗教の勧誘だった。今思うと、それはオウム真理教だったかもしれないが、当時はそんなことは分からず、また僕は映画監督志望の学生だったので、「何事も取材!」と宗教の勧誘だと分かっても興味をそそられて話を聞いた

 「人は死んだあと、どーなるか?」という話をされた。極楽浄土(或は天国?よく覚えていない)に行くには生きている内に仏様(神様?)にお祈りしないと無限地獄に堕ちて苦しむというもの。だから、私たちのグループに入り、一緒に祈りましょう...てな誘いだった。

 ただ、僕は昔から宗教が嫌い。極端な言い方をすれば「証明できない詐欺」とさえ思っていた。死んだあとどうなるか?なんて、誰にも分からない。天国に行ける。地獄に堕ちるとなぜ分かるのか? さらに言えば、お祈りしない人を地獄に落とす神や仏って、どーなの?「我を崇めない者は許さん!」という発想? そんなことを神や仏がいうのはおかしい。そう思うとさらに信用できなくなり、宗教というのは証明できない論理を振り回し、信者から金を巻き上げる組織ではないか?とさえ思えた。

 さらに、ある新興宗教を信じ、何十年もお祈りしている知人がいた。が、祈り続けた長年の夢は敵わなかった。なのに、神も仏も信じない僕が目標であった映画監督になった。そこからも、やはり宗教なんて信じられない。と言って宗教を全て否定する訳ではない。僕は信じないというだけ。だから、余計に信じる人はどんな考え方をしているのか?興味はあり、そのときも勧誘する女性信者たちの話を聞いたのである。


IMG_2592.jpg


 彼女たちの信じる宗教は「信心すれば死んだあとに天国に行ける」という多くの宗教と同じ発想だった。しかし、それを証明することはできない。天国で楽しく暮らす信者のレポートとかあれば?まだ伝わるが、当然そんなものはない。地獄で暮らし「お祈りしておけばよかった」という人の話も聞く事はできない。やはり、どの宗教もその辺が弱いと思える。

 ただ、その種の人たち。特に新興宗教の人たちは、そんな考え方を頑に信じている。質問しても、信じる理由を明快に答えられないのに信じている。だが、人が何を信じるのは自由だ。そのときの信者の女性たちに対しても、その宗教を否定することはせず、「話は分かった。でも、宗教に興味はないので、入会することはできない」と伝えた。するとが、その女性信者はこう言った。

「死んだら地獄に落ちますよ。そのとき後悔しますよ」

自分たちの考え方を強引に押し付けてくる。「信じなければなりません!」「あなたは考えが足りない」そんなことを言って来る。もう、勧誘ではなく、強制であり、脅迫でもある。宗教に関わらず、僕は考え方や価値観の押しつけが大嫌いだ。その種の押しつけは徹底して拒否する。けど、我慢して「歳とって、死期が近づいたら、死後のことを考えるかもしれないけど、今は死んだあとより、この先、どんな生き方をするかを考えることが先決だからね」と彼女たちの考えを否定しない返事をした。ら、こうだ。

「それでは遅いんですよ!あなたは何も分かっていません!」

そこで怒り爆発。「いつ何を考えるか?」は人の自由。考えるー考えないも自由。なのに初めて会った、それも街角で声をかけて来た奴が「それでは遅い!」「あなたは分かっていない」って何? 

 いや、例え、それが僕の先生でも、師匠でも、先輩でも、親でも、友人でも、僕は拒否する。あれこれ指示、命令、強制する奴が本当に嫌い。特に自分の価値観を人に押し付ける奴が一番嫌い!!!! 「説教してやる!」と思っていたら、待ち合わせしていた友達が来たので、黙ってその場を去った。まあ、往々にして宗教の勧誘というのは、その種の押し付けがましい人たちが多いので、余計に宗教嫌いになってしまう。


13059_727634873977486_1376154400755328155_n.jpg


 だが、昔からある宗教ではなく、新興宗教はその種のしつこい勧誘をするようだ。そこから分かるのは、やはり大手と違い信者少ないから、組織拡大のために、強引な勧誘が必要だということもあるだろう。天国も地獄も本来関係ないように思える。それから10数年ほどして、オウム真理教事件が起こり、その前後にも、法の華三法行とか、スペースなんとか、他、よく分からない教祖が大金持ちだったり。その種のニュースが続いた。

 それらを見ていて感じることがあった。あのときの女性信者もそうだが、なぜ彼女たちは何ら論理的な根拠がないのに団体の教義を信じているのだろう。死後の世界がどうなるか?確認することはできない。にも関わらずそれを信じて天国に行くためにお祈りする。自身が何を信じてどんな行動を取るか?は自由だ。しかし、それをなぜ他人に押し付けてくるのか? つまり

 ①なぜ、根拠のない教義を信じて、祈り続けるのか?

 ②なぜ、その教義を他人にも押し付けるのか?

 これが最大の謎であり、オウム真理教の地下鉄サリン事件以降に報道された彼らの実態を見た多くの人が「何考えてんだ! あんな宗教に入る奴らの気持ちは分からない」と言ったのも、同じ理由だろう。ただ、この数年。原発問題や安保法制等を見ていると共通するものが見えて来た。さらに、何度も連載で書いた「Facebook問題」を重ねると答えが分かった来た。

 長くなったので、続きはまたいずれ....。

(つづく)




朝日ーレンタル中.jpg





 






nice!(1)  コメント(0) 

「週刊リテラシー」上杉隆さん降板で感じたこと。 [my opinion]

CoWKdNgXYAUUFFC-9aae9 2.jpg



①毎週土曜「週刊リテラシー」を楽しみにしていた。

が、番組自体がリテラシーを失った。

出演者・上杉隆を理不尽に降板させ、本人には何も説明させない。

おまけに本人は承諾という嘘までテロップで放送。

これでは「リテラシー」という看板は偽りだ。

どんな真実を伝えても視聴者にはもう届かない。



②報道ステーション」古舘さんが降板してから見ていない。

続いて「NEWS23」もキャスターが交代。

政権を厳しく批判すると皆、いなくなる。

その流れで見ると「週刊リテラシー」を急に降板させられた上杉隆さんも同様。

知事選立候補が理由ではないだろう。




朝日ーレンタル中.jpg
nice!(2)  コメント(0) 

(ご注意)僕の名前で「映画監督」と名乗るTwitterアカウントがあり。同姓同名の同業者か?なりすまし? ご注意ください。 [my opinion]

CsFtVSBUkAEPNd-.jpg-large.jpeg

僕の名前で「映画監督」を名乗るアカウントが6つほどあります。

日本の映画監督で僕と同性同名はいません。

ま、同姓同名で自称「映画監督」かもしれませんが、、、

僕とは別人なので、ご注意下さいね!

上写真。いちばん上が私です。

顔写真入り。

でも、これって、もしかして嫌がらせか?

「有名人のニセ者アカウントはよく出て来るよ」

との話も聞く。うーーん、僕も有名人の仲間入りか?

注意せねば。


朝日ーレンタル中.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

選挙戦から気付いた大切なことー本当に応援しているのか? 単なるファンになってはいないか? [my opinion]

IMG_3081.JPG

 先の参議院選、都知事選で感じたことがある。どちらも人気候補がいて、その人たちを応援する人たちが僕のまわりにもいた。何人かの友人からその候補に投票してほしいとのメールも来た。が、その辺から引っかかるものがあった。

 別の友人はその候補へのエールを毎日Facebookに書き込んでいた。友人たちは日頃から政治に興味がないので驚かされたが、そんな人たちをも巻き込むほど候補が魅力的なのだと思えた。実は僕もその候補たちには好感触を抱いており、僕の知る事情通の有名人も彼らを応援していた。

 しかし、僕は疑り深い。本当にその候補たちは言われているような人だろうか? そこでその候補の街頭演説を聞きに出かけた。実際に自分でその候補を見て、話を聞くことで、判断しようと思った。もちろん、街頭演説でいいことを言っていたとしても、それが本音で言っているとは限らない。が、その話かたから、いろんなことが分かる。映画監督業。仕事がらその辺は得意だ。

 駅前で行なわれた街頭演説に出かけた。参議院選ーその候補の演説。かなりな人が集まり盛り上がっていた。まるでロックコンサート。もの凄い人気が伝わって来る。その演説も真剣であり、人気があるのもよく分かった。僕自身も応援したいと思った。が、違和感を感じた。

 理由は候補者本人ではない。支援スタッフの行動。彼らを見ていると候補者を支えていることに強い「喜び」を感じているようだった。本来、それはいいことだ。嫌々やるより、お仕事的にやるより、自ら進んで応援する、支援する。それはいいことなはずだが、強い不審感があった。

 コンサートでいえばそのスタッフたちはスタッフではなく、観客に近いと思えた。アーティストに共感。一緒に歌ったり、ペンライトを振ったり、というファンの心理。スタッフというのはアーティストの魅力が最大限に引き出せるような努力をする仕事なのだ。共感しても覚めて見なければならない。それでいうと、その街頭演説のスタッフは前者に近かった。

 これを通行人。或はその候補者をよく知らない人が見ればどう思うか? 答えは簡単だ。コンサートでキャーキャー言うファン。アーティストの名前を連呼する観客。それをファンでない人が見たときに感じるのと同じ。違和感である。好きでない人から見ると、ゲゲゲ!と思う。もっと言えば「バカじゃないの?」とさえ感じるだろう。それと同じ感情を通行人は感じたのではないか?

 僕自身はその候補の演説を聞いて感動したし、思っていた以上に考え勉強していることを知り、共感。応援したいと思った。最終的に彼に投票した。が、まわりの人たち。通行人を見ていると、チラシを受けとらない人。眉をひそめて通り過ぎる人。特にお年寄りは拒否感が強かった。数千人の支援者が集まり、盛り上がってはいるが、それはコンサートと同じであり、ファンが集まっただけで、街頭演説の本来の意味。「国民に訴える」は出来ていなかったのではないか?

 さらに気になったのは、その候補に投票してほしいとメールしてきた友人。Facebookに応援文を書く友人のこと。この2人。どちらかというと内向的。何かを第三者に訴えることが得意ではない。いつも自分を優先。揉めることはしたくない。避けて通りたいというタイプ。そんな彼らが応援文を書いても、メールしてきても説得力がなく、その候補の何が魅力なのか?分からなかった。

 これもコンサートで例えると「感動のライブ。最高でした。素晴らしい。愛のあるアーティストです」と言われても、そのアーティストを知らないと「コンサートに行きたい!」とは思わない。そのアーティストのCDを聞き、歌詞を噛み締めて「ああーなるほどいいなー」と、そこまでしてくれる人はいない。つまり、友人たちは自分が好きなアーティストをFacebookやメールで賛美するだけであり、なぜ、彼らなのか? を第三者が分かるように語ってはいないのだ。

 彼らの文を読むと、何だか新興宗教の勧誘のようなニアンスさえあり、余計にその候補に対する不信感を持ってしまう。実際、僕はその候補の演説を聞き感動したが、そのメールを読んだだけなら、投票しない方がいいな...と考えたはずだ。

 もうひとつ、それら友人は非常に思い込みが強い。良い言い方をすると感受性が強い。それゆえ、あるきっかけで嵌ると絶対的なものになってしまう。なので、彼らのいうことは疑ってかからねばならない。また、彼らは内向的なのでアピールが下手で、その候補者が本当に素晴らしいかどーか分からず、素直に同意できないことが多い。そんなこともあるので、彼らが応援するその候補は疑ってかかったのだ。

 さらに、もう一人。あるところでお会いした方も、その候補の支持者だった。が、話をしている間中。一度も彼の話をしない。投票日の直前だというのに、何も語らない。その候補者の話が話題に出ても、熱く語らない。そして、その人の話はすぐにあちこちに飛び、落ち着きがない。僕が知る限り、先の友人2人と、その人と3人が身近な支援者。それで不信感を持ち、街頭演説に出かけたのだ。

 それは先に書いた通り。支援者はスタッフではなくファンが多かった。友人たちも同じだ。もちろん、皆、必死で応援しているのだけど、ファンなので「盛り上がりたい」「がんばりたい」という思いが先走る。候補者の魅力を第三者に伝えようという意識に欠ける。むしろ、彼らの行動が第三者から異様に見えてしまう。

 もう一人の候補。別の選挙だが、その候補者も人気者だった。が、こちらも支援者が暴走。他の候補者の街頭演説中に、自分たちが支持する候補の名前を連呼。大顰蹙を買った。もう選挙妨害そのもの。ただ、応援する熱い思いが溢れた結果であり、妨害という意識はなかったとは思う。

 しかし、そこに問題がある。両候補に通じるのは、本人の演説を聞けば素晴らしい人だと分かる。にも関わらず、支援者の一部。或は多くが、ファンでしかない。候補者のアピールをするというより、その候補者と一緒にがんばっていることに喜びを感じている。まさにコンサートの観客。冷静に「どうすれば候補者の魅力を伝えられるか? 拡散できるか?」考えていない。

 このことは僕自身も痛感したことがある。「朝日のあたる家」という映画を作ったとき。本当に多くの人が応援してくれた。が、中には、こんな人もいた。

 「昨日、映画館で見ました。夜の遅い回でした。素晴らしい映画なのに、館内はガラガラ。もっと多くの人に見てほしいです」

 本人は応援のつもりなのだが「この映画はヒットしていません」と告知しているのと同じ。映画宣伝で一番やってはいけないパターンだ。映画というのは最初は連日満員でも、最終日が近づくと特に平日の夜などは、どーしても客が少ない。そんなときに映画館に行き、ガラガラの客席の写真を撮り、Facebookに載せる。これはもう嫌がらせの域だ。しかし、それは本人には応援のつもりなのだ。或はネットで映画を応援してくれていた人。ある日、Twitterにこう書いていた。

 「最初から映画見るつもりはなかったでーす。でも、多くの映画館で上映拒否と聞いて応援したいと思いました!」

 もちろん、応援は嬉しいことではあるが、「いい映画だから、多くの人に見てほしい」ではなく、ネットで盛り上がるのを参加して楽しもうということだったようだ。それって、タレントのスキャンダルを批判して、炎上させる人たちと大差ないようにも思える。

 また、地方で映画撮影をしても、撮影時は応援してくれるが、公開時には来てくれない人もいる。要は映画はどーでもよくて「俳優と会いたい!」というだけのこと。なのに「映画。応援しています!」「がんばってください」と現場に来ていた。もちろん、最後の最後まで真剣に応援してくれる人もいて、一生頭が上がらない方もいる。が、そういう方は多くはない。

 選挙でも映画でも、そんなふうに「楽しみたい!盛り上がりたい!」というロックコンサートの乗りで参加、応援する人も多い。そして、その種の人は応援の輪を拡散するより、第三者から嫌悪感を持たれ、人々を遠ざけるということが多い。本人には悪意なし、むしろピュアな人が多いが、マイナス面が多い。そんなことを選挙演説を見ながら思い出した。

 選挙結果は両者共に落選した。つまり、大きな政党の支持を得た候補者は確実に多くの票を得たのに対し、それを持たない市民が応援した候補者は、その人たちだけで盛り上がったからだ。駅前に数千人が集まっても、それは小さな輪であり、百万票単位が必要な選挙では足りない。ここに市民運動の問題点も見えて来る。本当に素晴らしい候補者でも、素晴らしいスローガンでも、それを支援者たちだけで盛り上がり、ファンのような行動を取っていては、何かを成し遂げることはできないということ。

 政党は嘘八百でも、日頃から努力し、有権者にアピールしている。支援者の多くは何も考えてない人だとしても、その人たちに投票させる努力をしている。それに対して、ファンと同じ気分で、現場で盛り上がるだけの、勢い余って他の候補の演説を邪魔までしてしまう人たちでは、勝てないのも当然。これは選挙の問題だけではない。映画も同じ。低予算で宣伝費がない映画は多くの人の応援が必要。でも、先にも紹介したように応援でななく、妨害行為をしてしまう支援者も多い。盛り上がりたいだけで応援する人もいる。でも、それを見分けるのは難しい。

 うまく答えは出せないが、市民側から何かを変えていくとき、その前に1人1人の意識から変えて行かないと、ファン気分で「盛り上がりたい!」というだけでは、マイナスが大きくなるばかり。そこから考えて行かねばならないだろう。


朝日ーレンタル中.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

確実性が大事。着実に準備してスタートしようーそれはアウト。映画作りは「思い」が問題を超え完成させる! [my opinion]

IMG_3319.JPG


 円谷プロの社長だった円谷英二。

「ウルトラQ」を作るとき、当時は驚愕的な高額であったオプチカル・プリンターをアメリカの会社に注文した。そんな費用を円谷プロでは払えないのにである。発注してから社員はパニック。どうするの? 払えないよ。キャンセルしよう!と連絡したが、すでに船便で発送したあと。機械はすでに太平洋の上。

 結果、TBS支払いを肩代わりするのだが、円谷が支払いのあてもなく注文したオプチカル・プリンターのお陰で「ウルトラQ」は歴史に残る名作となる。もし、彼が堅実で慎重な人で「会社に資金的な余裕が出来てから、その機械を買おう」と言っていたら、与えられた中で、地道に堅実にやっていたら、あの時代に「ウルトラQ」は誕生していない。つまりは「ウルトラマン」も「ウルトラセブン」も、さらには「怪奇大作戦」も生まれていない。

 「ウルトラQ」であのクオリティの高い特撮

はできなかったし、他の会社が同種の機械を買い、そちらが飛躍し歴史に残ったかもしれない。当然、その後の円谷プロの隆盛もなかっただろう。特撮ドラマブームも起きなかった可能性がある。全ては「ウルトラQ」から始まったことであり、そこで歴史が変わったのだ。その全ては円谷英二の無茶な決断からスタートしたのだ。


IMG_2331.JPG


 あの大林宣彦監督が名作「転校生」のクランクイン直前にスポンサーが降りたというのも有名な話。普通なら、撮影は延期、または中止にして、新たなスポンサーを探す。状態を立て直して、改めて撮影に入る。が、大林監督はそのまま尾道に行き、スタッフ&キャストと合流。撮影をスタートさせる。製作費もないのにだ。そのあとの展開はすでにあちこちで語られているので、省略するが、大林監督はいう

 「あのとき、僕が撮影を中止にしていたら、今の僕はないでしょう。当然『時かけ』も『さびしんぼう』もない」

 さらに言えば、原田知世や富田靖子も世に出ていないだろう。ひとつの決断が歴史さえも変えてしまうのだ。そのこととてもよく分かる。

 80年代。自主映画をしていた頃。

多くの若い自主映画監督たちは撮影現場で苦闘した。素人の彼らの前に次々に難問が立ちはだかる。友人の1人はそんな問題に直面。このままでは撮影は破綻すると感じて、友人でもあるスタッフに告げる。

 「このままいい加減な形で続けるより、一度撮影を中止して問題をクリアーした上で、改めて撮影を再開したい。このままではいい作品はできない。だから、しばらく撮影を中止にするが、必ず再開するので、そのときはもう一度協力してほしい」

 誰もがその言葉に「やる気」と「慎重さ」を感じ。撮影中止を了承。撮影再開を待つことにした。監督の言葉を誰も疑わず、信頼していた。が、一見、「やるき」と「慎重さ」を持つ、彼の言葉。その考え方がいかに机上の空論であったか?を数ヶ月後、全員が痛感する。

 何ヶ月待っても撮影は再開されず、年を超えても連絡はなし。本人に会ってもまるで「やる気」を感じず、映画のことに触れようとしない。「なぜか?」それは彼の言った「問題をクリアーした上で、改めて撮影を再開したい」という言葉。それがどれだけ困難なことであるか? 誰も分かってなかったのである。


image-ed355.jpeg



 一見、正しいことを言っているようだが、

一度、出航した船をもう一度、港に戻して修理、再び出航するには、かなりな時間と、膨大なお金と、強い意思と、深い理解と、もの凄い量のエネルギーが必要なのだ。そして、一度、港に帰って来て、ほっとしたところから、嵐の海に乗り出す気力は想像以上。つまり、撮影を中止して立て直すエネルギーも同じ。そして当然、撮影を再開しクランクアップまで持って行くもの凄いエネルギーも必要。

 だから、どんな困難があっても、撮影を中止せず、続け、クランクアップまで無理にでも持って行く方が実は現実的なのだ。一度、止めて、それをまた動かすのは想像を絶するエネルギーが必要。その現実を若い自主映画作家たちは知らなかった。「このままいい加減な形で続けるより、一度撮影を中止して、状態を立て直し、問題をクリアー」などという。それがどれだけ大変なことか?分からなかったのである。

 実際、自主映画の撮影はよく中断する。

それで再開し、見事な作品として完成したケースを僕は見たことがない。スタートしたら石に齧りついても、最後まで走り続けることが絶対に必要なのだ。だからこそ、大林監督はスポンサーが降りたにも関わらず、撮影を強行した。でなければ「転校生」は幻となること実感していたのだろう。

 つまり、言葉の上では「もっともだ」「堅実だ」「慎重さがある」と思えるものであっても、実際は機能しない、無意味であることが多い。別の角度からいうと何をすると宣言すると「可能性が低い」「前例がない」と批判する人が多いが「可能性が高い」ことは誰でもできる。「前例がない」からこそ、成し遂げたときに評価される。慎重さや堅実さ、前例や可能性を大事にするのなら公務員になるべき。「税金を投入したけど失敗しました!大赤字です」ということをしてはいけない立場。


10409152_748958048511835_5995345843323390141_n.jpg


 でも、この業界は戦いであり賭け。

そこで安定や確実性を求めるのは違う。「無茶だ」「もっと慎重に」「地道に」「チャンスはまた来る」とか言われたときに、それに逆い行動したときに成功はもたらされることが多い。そういえば僕が「製作費を集めて、映画を作り、監督する!」と宣言したときも、誰もが反対、批判。先輩たちからも何度も説教された。が、結果的に目的は果たした。初監督作の「ストロベリーフィールズ」は自身で製作費を集め、企業等を呼び込み、商業作品として映画製作をした。

 その後、2作目、3作目も自身でスポンサー集めからスタート。今は監督依頼が来るようになった。が、ただ待っているだけだったら、未だに劇場用映画を監督することはできなかったかもしれない。可能性が低くて、友人たちに批判されても、勝負するときに勝負することは大事。

 それは映画界だけでなく、他の業界でも同じだと思える。確実に儲かる。成功は固い。なんてビジネスはない。確実性がないからと諦めるのではなく、どうすればうまく行くか?を必死に考えることが成功の鍵なのだ。それを僕は大林宣彦監督や円谷英二から学んだ。





朝日ーレンタル中.jpg

nice!(0)  コメント(0) 

夢を語ると止めにくる人たち③ 戦後教育がオウム信者と変わりない多くの日本人を育てた? [my opinion]

IMG_3300.JPG


 前回は日本の教育が日本人の「考える力」を育てていない

という話を書いた。その背景に、与えられたことを確実にこなす優秀なサラリーマンを育てるという目的がある。そのためには上からの命令に逆らわない。疑問を持たない大人であることも重要。

 従順で、文句を言わない、反抗しない、命令通りに動くまさにサラリーマン・ロボットを作り上げることが日本の教育の目的。育てたロボット人間を優秀な者から大手企業は採用。日本は経済大国となる。企業は採用者たちの生活の安定を保証した。その選別のために必要なのが受験システム。その安定に惹かれ母親たちは我が子の将来を心配せずに済むように、子供たちを受験戦争に送り込んだのである。

 それは強固な社会システムとなり、

その体制や流れに反抗する者。つまり「会社員にはなりたくない。僕は俳優になりたい」とかいう若者。歌手。小説家。芸術家になりたいと受験や教育を否定する者が出て来ると、本来はいろんな道があるのだから、それはひとつの生き方。だが、先のような夢を語ると、多くの大人たちがよってたかって、その夢を諦めるように説得する。

 「世の中甘くない」「現実を見ろ」「お前才能あるのか?」と、何がもらえる訳でもないのに熱心に否定や批判をする。「皆、本人とため」と思っているが、それは結果、サラリーマン・ロボットを育てる教育システムからはみ出そうとすると、説得して連れ戻し、国が決めた通りの生き方をするように強制するのだ。


IMG_2911.JPG

 ここが非常に気持ち悪いところで、

彼らは役人でも、教育システム推進を仕事をする人たちではない。なのに、他の人たちと同じように決められた教育を受けることを強制してくる。ここに日本人の気質が見える。「皆と同じであること」「はみ出さないこと」「協調性を持つ事」それらを大切に考える日本人の考え方が、結果として、サラリーマン・ロボット育成教育を推進。そこから出ようとするものを連れ戻す役割を果たしているのだ。

 その日本人の気質が太平洋戦争で暴走した。「お国のために死ぬ」その発想のもと。母親たちは子供たちを戦地に送り、多くを死なせてしまった。「戦争反対」「何か間違っている」と云おうものなら、近所の人が集まり「非国民!」となじられただろう。国の定める目標に逆らう者は国が対応する前に、国民が、市民が、近所の人たちが定められた生き方、考え方に連れ戻そう、押し込もうとするのである。

 太平洋戦争も受験戦争も同じ構図であり、

どちらも国策。間違ったことであっても押し進められ、多くの人々は疑いもせずに従い、まわりの人たちにも強要する。それが日本人気質であり、さらに考える力を持たない、言われたことだけをする大人に育ててきたのが戦後の教育なのである。

 オウム真理教でも、高学歴の信者がたくさんいて「なぜ、あんな賢い人たちが麻原彰晃なんかに騙されてサリン撒いたりしたのか?」と当時、多くの人が疑問に思った。が、日本の教育は「考える」大人を育てるのではなく、上から与えられたことを確実に実行する人間を育てること。信者たちは麻原尊師という上からの指示に従い、応えたのだ。そう考えると学歴がいくら高くても「考える」力が育っている訳ではないことが理解できる。それが日本の教育なのだ。前回はそこまで書いた。

 最近はネットの普及により様々な情報が流れる事で、その辺に疑問を持つ人も出て来た。が、まだまだ多くの人は上から言われることを素直に受け入れてしまう。「戦争法」と言われる「集団自衛権」も一部の人は反対したが、多くは政府の説明通りに「あれは戦争を止める法案」と思い込んでいた。ちょっと意味を考えると、矛盾だらけ。国会中継やニュース番組を見れば、その説明があまりにも筋の通らぬものだと分かるのに、気付かない人が多い。

 そんなふうに考える力が弱い国民なので、

ニュースで嘘を流しても信じてしまう。「テレビが言ってるんだから本当だ」と思う。それに目を付けたのがあの政権である。自分たちを批判するテレビ番組、キャスター。コメンテーターがいると、局に圧力をかけて降板される。そして、自分たちに都合のいいことを言う存在を後がまに持ってくる。


IMG_2570.JPG


 キャスターどころか、局のトップに手下を配置することまでしている。「政府が右というもの左とはいえない」と、報道機関とは思えぬことをテレビカメラの前で言うような人。でも、そうやって、政府に都合の悪い報道や批判をできないようにして、「政府はがんばっています」「支持率は高いですよ」と実際とは違う情報をテレビ、新聞、報道番組から流す事で、考える力が育っていない大人たちは、何の疑いもなしに受け入れ、信じてしまう。自分たちが搾取され、税金が無駄に使われ、弱い人たちを踏みつける政策が進んで行くのだ。

 戦後の教育は優秀なサラリーマン・ロボットを

育てるというのが目的であったが、ここまで来ると政府が国民を支配しやすい、操る事が簡単。逆らわない、従順な国民を育てることも目的だったのではないか? と思えてしまう。日本人にとって重要な法案や危険な原発の問題より、多くの国民は芸能人の不倫や人気アイドルの解散に興味が行くのも、考える力が育っていないから。目先のことをしか見えない大人たちであることの証明だと思える。

 「夢を語ると止めに来る人たち」はなぜ、そんなことをするのか?というところからスタートした今回の問題。その背景に大きく歪んだ教育システムと国策を見つけた。さらに、そのことが様々な問題に繋がっており、見せかけての政治家がトップ当選したり、政府が国民を踏みつけにする政策を続けても多くが気づかず、むしろ賞賛するのも背景は同じだと分かる。

 では、次に考えるべきは、「だったら、どーすればいいか?」になってくる。先にも紹介したが、その答えはまさにSoftBankの会長・孫正義が言った言葉だ。

 「日本人は考える教育をしないと、金輪際、アジアの企業には勝てない」

 彼の発言はここまで紹介してきた日本の戦後教育の現実を踏まえてのものである。では、考える力を持つにはどうすればいいのか? 考える力が育っていない大人はどうするべきか? 子供たちはどうすればいいのか? それは別の機会にまた考えたい。






朝日ーレンタル中.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

夢を語ると止めにくる人たち② サラリーマン・ロボットを育てる日本の教育? [my opinion]

IMG_3273.JPG

 「日本人はなぜ夢を否定したがるのか?」

 について先の記事で書いた。それで思い出したが、日本の教育方針というのは、戦後アメリカによって決められたものだという。国が経済的成功を収めるための人材教育としての実験として行なわれたものだと聞く。もし、そうであれば大成功。焼け野原となった国土から立ち直り、一時は世界ナンバー1の経済大国にまでなったのである。

 日本の教育システムはこうだ。真面目に勉強し、成績を上げる。いい大学に入り、いい会社に就職する。そうすれば、定年まで勤められ、定年後は年金や退職金で生活ができる。一生安泰というシステムだ。よりいい成績を上げることで、よりいい大学に合格でき、よりいい会社に入社できる。それはより高給をもらうことでき、より安定し、より豊かな生活ができるというシステムでもある。

 国としても、成績優秀な者を役人として採用。国家一種試験に合格すれば、エリートコースを約束した。企業も一流大学から採用。成績優秀な人材が大手企業で、第1線で働く事となる。日本の教育は与えられたことを、いかに確実にこなすか?を訓練するもの。そんな優秀な人材が第一線で働くことで、企業は大成長。経済大国へと育ったのである。


 そのシステムに一番、乗っかったのが世の母親

だと思える。勉強さえすれば、成績さえ良ければ、一生安泰。我が子は苦労することなく、食いっぱぐれることなく生活を送れる。なので、子供たちを勉強させた。家庭教師をつけ、塾に通わせて、勉強させるようになる。

 ただ、問題がある。その教育は「暗記」が中心。「考える」は少しだけ。これは意味がある。つまり、全てについて優秀な人材を育てるのではなく、「与えられたことを正確にこなす能力」が秀でた者を育てるという教育。何かというと、上からの指示に疑問を持たない。指示に逆らわない。あれこれ背景を考えないという大人を育てるということだ。まさに、サラリーマン・ロボット。今の代表的な日本人の姿でもある。


IMG_2261.JPG


 上から言われればおとなしく仕事をする。

反抗しない。「その仕事は何の意味があるのか?」考えない。つまり、上の人間がとても使いやすい存在を育てて来た。従順で、疑問を持たず、逆らわない。ちょっとやそっと酷い目に遭っても我慢して働く。上からだけではなく、テレビや政府が何かを伝えれば、疑うことなく、信じ込んで従う。


 これは16年に渡って、暗記中心で、考えるという訓練をしない教育によって、自分でものごとを把握し、判断することができない大人が数多く育ったからだ。原発問題にしても、9条改憲にしても、秘密保護法にしても同じ。あの程度の誤摩化しで信じてしまう人が多いのは、やはり教育の成果だろう。

 その代わりに、指示に逆らわず、

身を粉にして働くサラリーマン・ロボットの力で、日本は経済大国となった。ただ、バブル崩壊後に混迷の時代に入り、日本は低迷する。同じ手法でサラリーマン・ロボットを育てて来た韓国、中国に追い抜かれたのである。技術で追いつかれた上に、人件費が安い国には敵わない。SoftBankの孫社長はいう

 「考える教育をしなければ、日本は金輪際、アジアで勝てない」

 まさに、その通りだ。言われたことしかできないサラリーマン・ロボットは言われたことしかできない。上の指示が間違っても、気付かずにそれを続ける。臨機横柄、自分で考えて行動することができない。こうして、日本は経済大国の座を追われ、没落の一途を辿っている。バブル崩壊後、絶対に安心と思われた銀行等の大手企業まで倒産。リストラも大量に行なわれた。今や企業は社員より自己保身のために、正社員を減らし、いつでも切れる契約社員を増やす。ブラック企業と呼ばれるところは、社員が自殺するまで働かせる。社員の生活安定より社の生き残りを優先としている。


IMG_2260.JPG


 いい大学を出て、いい会社に入れば安泰!

といわれた会社神話は崩壊した。にも関わらず、世の母親たちは今も子供たちを「暗記中心」の教育を受けさせ、その偏った世界の中でいい成績を取ることを望み、よりいい大学に合格させようとしている。もう、崩壊しているエリートコースの我が子を乗せようとしているのだ。

 なぜか? その母親たちこそ(僕らの世代だが)考える教育を受けずに、与えられることをするだけの教育で育てられたので、一度刷り込まれた「一流大学」=>「一流企業」のエリートコースを未だに信じているのだ。これって、サリン事件を起こして正体が分かったしまったオウム真理教を今も信じて、「麻原尊師は素晴らしい」という信者と大差ないように思える。

 もちろん、今でも一流大学を出て、一流会社に就職できれば、しばらくは大丈夫だ。大手企業に入ればそこそこ安定するだろう。でも、今年、大手電気メーカーであるシャープが台湾の会社に買収された。あのSONYでさえ厳しい経営をしている。今、世界でナンバーワンの電気メーカーはSONYでもPanasonicでもなく、韓国メーカーである。

 子供たちが大学を出て就職。

その5年後、10年後はもっと酷い状況になっているかもしれない。大手企業がさらなるリストラをして行くだろう。まして、二流大学を出て、入った二流企業はどうか? 危険がいっぱい。なのに、母親たちは子供たちに「暗記」中心の教育を未だに受けさせ、大学を目指すことを望んでいる。

 今、大切なのは大人なったときに、本当に役に立つ知識や技術ではないか? 自分の目と耳で現実を判断できる能力ではないか?なのに、考えることをあえてしない。与えられたことをするだけのサラリーマン・ロボットになる教育を母親たちは今も信じ続けている。

 戦時中と同じ構図だと思える。「進め一億、火の玉だ」当時のキャッチフレーズを思い出す。反対する者は「非国民」。もう、どうがんばっても勝てない戦いになっているのに、竹槍を配り。「本土決戦だ!」と叫ぶ。その敗戦間際の日本を見るようである。成績を上げることをいいことだと信じて、子供を受験戦争に送り込む親たち。「お国のために」と子供たちを戦争に送り込む戦時中の親と同じように思える....。



IMG_2228.JPG
 
 ここに日本人の特性が見えて来た。

皆がひとつの方向に向かうと、誰もがその方向に向かう。疑問を持たない。それどころか、疑問を持つ人を糾弾する。戦時中は「非国民」現代は「落ちこぼれ」。そして、国が推奨する以外のコースを選ぼうとすると....そう、「俳優になりたい。歌手になりたい。映画監督になりたい!」というと、多くの人が誰から言われた訳でもないのに、集まってきていう。

 「現実は甘くない」「無理に決まっている」「現実逃避をするな」

 そういって否定。相手が間違っていることを諭す。そして受験戦争に連れ戻そうとするのだ。これも戦時中と同じ。「こんな戦争は無意味だ」と云おうものなら近所の人たちが「非国民」と糾弾した。今も同じ。「何が子供たちにプラスか?」を考えるのではなく、政府の押す教育方針を信じ込んでいるだけ。

 今の教育では昔のような安定した人生はもう送れない。それはハッキリしている。にも関わらず、親たちは、子供を昔と同じ、無意味な教育を受けさせようとしている。でも、考える力を持たない親たちには、その努力が無意味だと今も気付いていない。

 ここで二点。確認できる。

①親たちもまた、考える力が育っていないので、良かれと信じて子供たちを崩壊した教育システムに委ねる

②日本人は一方に走り出すと、誰もが同じ方向に走り出す。
 その流れから出ようとすると、誰に言われなくても、粛正し、流れに連れ戻そうとする。

 
 この2つが日本が無意味な戦争を続け敗戦となった理由であり、「受験戦争」を加熱させた理由でもある。そう考えると、前回の疑問。「なぜ、夢を語ると否定する人が出てくるのか?」の理由も分かる。それも上記の2つなのである。

 そうなると、夢を語るときに、否定、説教するのは、「優しさ」というより、村社会を維持するためと思える。その否定、批判は誰かに指示されなくても行われる。個々が意識せずに「相手のため...」と思い込んで、夢を止めよう、国の方針に従わせようとする。気持ち悪い資質と思えて来る...。









太郎とあかね_edited-1.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

なぜ、夢を語ると否定してくる人が多いのか①その裏にある日本の教育システムー軍国主義と同じ構図? [my opinion]

IMG_2321.JPG

 このところ、考えていることがある。

 答えを探すために、その思いを文章にしてみる....。このところ気になっているのが「facebook問題」と「地域のコミュニケーション」の共通点だ。「心のオアシス・喫茶Facebook」の記事にも書いた話。その先を考えて行くとある種の答えが見えて来るような気がするので、まずは高校時代の話から考える。

 高校時代。映画監督になる!というと、あらゆる人たちが反対した。親、親戚、教師、友人、近所の人。だから、なるべく彼らとは話さないようにしていたのだが、あれこれ言われた。「世の中甘くない」「夢はしょせん夢だ」「そんな簡単に行かない」「才能あるのか?」「無理に決まっている」等々。

 しかし、あとで考えると、その大人たちの中で映画界で働いたことがある人は誰もいなかった。友人が映画の世界で仕事していたという人もいない。つまり、自分たちが知らない世界のことをあれこれ、「厳しい」とか、「才能が必要」とか、「甘くない」とか想像で言っているだけだったのだ。

 反対されながらも、僕は高校卒業後、

 チャンスを掴み、映画の世界で仕事をするようになる。そのときに「映画監督を目指している」といっても反対する人はいなかった。まわりにいる多くは皆、監督になることが目標だからだ。もちろん、監督になるのは簡単じゃない。運もあるし。ということを言う人はいたが、皆、その世界の人たちであり、経験等に裏打ちされた助言だった。知らないことを言っている訳ではない。

 ところが、僕が「自分で製作費を集めて監督になる!」というと多くの人が反対した。「Pもやったことないのに無理」「誰がお前に金を出すんだ?」「前例がない」「世の中甘くない」というのだ。確かに、監督経験も、P経験もない奴が製作費を集め、映画を自分で監督するなんて話は聞いたことがない。僕自身、簡単なことだとは思っていないかった。

 が、このときも、自分でPをやったことがない人。監督経験もない人。製作費を集めたことがない人たちが、あれこれ忠告して来た。ん? 同じ構図。毎回、あれこれ説教したり、忠告したり、アドバイス....というより批判する人は自身の経験のないことを、想像で「簡単ではない」と判断して、「やめた方がいい」と注意、助言して来るのだ。

 高校時代も同じ。

 要は「諦めろ」「やめておけ」といいたい人ばかりだった。いずれにしても自身がやったことがないこと。経験のないことなのに、あれこれ注意、忠告してくるのだ。なぜ、何ら根拠のない、経験もないことをアドバイスしたがるのか? もうひとつ言えば、ほとんどが、こちらから相談した訳ではない。聞いてもいないのに先方から、あれこれ言っていることが多いのも特徴。

 その背景は以前の記事で書いたが、友人や後輩。或は子供たちを「応援したい」「役に立ちたい」「酷い目に遭わせたくない」という本来、優しさから忠告したり、アドバイスしている。傷ついたり、人生を台無しにしたり、辛い生活を送ってほしくないという願いからの言動だ。


IMG_2321.JPG

 
 だとしたら、なぜ、自分の知らない世界。或は経験のないことを「簡単じゃない」「世の中甘くない」と決めつけて、相手の夢を否定したがるのか? 自分がよく知る世界で、こんな問題がある。こんな厳しい側面があるというのなら分かる。知らない世界を、経験のないことを「やめた方がいい」と諭すのはどういうことか?

 当初は知らない世界だから不安であり、

 何が起こるか? どうなるか?分からないという不安や恐怖から止める側面もあるだろうと考えた。が、映画界で仕事をするようになってからも、自分たちの経験のないこと。見聞きしたことがない行動を取ると反対する人が多かった。「無理だ」「不可能だ」「前例がない」と否定。やめることを求めた。

 なぜ、人はこのように自分の知らないこと、経験のないことをする人を止めるのだろう? そのことで何らかの被害が及ぶ訳ではないのに、あれこれ口を出してくる。相談してないのに、あれこれ言って来る。もちろん、先に上げた「役に立ちたい」「心配だ」「応援したいからこそ」という優しい思いが底辺にはあるだろう。

 だが、それは、その人の思いを抑制し、押さえつけているという意味でもある。何ら、迷惑がかかる訳でもないのに、自分の経験のなこと。知らないことに挑戦しようとすると、頼まれてもいないのに止めようとする。事実上の邪魔をする。それを「親切心」だけで理解するのは厳しいものがある。

 本当の親切とは、自分ができることで応援する。

 知っていることを伝える。危険な部分を教えるということであり、知らないこと。経験のないことを忠告することではない。それは横暴であり、本人からすれば邪魔されているだけと思える。

 結果的に僕は、自分で製作費を集めて監督するという目標を達成する。高校時代から、あれこれ言われたが、語った夢を実現した。無理ではなかった。すると、不思議なことが起きる。反対していた人に結果を伝えると、こういうのだ。「よかったじゃん!」はあ? あれほど反対していたのに何それ?

 つまり、その先輩は「絶対に無理」「止めた方がいい」「前例がない」と僕の行動を何度も止めようとしていた。なのに前例のないことをやり遂げた。その場合のリアクションはこうだろう。

 ①嘘だろ。できる訳ないよ。

 ②マジかよ。すげーなー。まさかやり遂げるとは思わなかったよ。

 ③たまたま運がよかっただけだよ。次はそう簡単に行かないよ

 この3つが想像できる。なのに先輩は「よかったじゃん!」の一言。あれほど反対していたのに、何だそれは?と思えた。このリアクションから言えることは、先輩はそれほど真剣に僕のことを考えてなかった。真剣に止めようとはしていなかったのだと思える。(或は悔しいので、受け流しているのかもしれないが、そうとは思えないことが多い)だから、軽いノリの答えなのだ。


IMG_2260.JPG



 この種のことはよくある。

 「絶対無理!」「止めろ!」と言った人が、それがうまく行ったと報告すれば「よかったね」というようなことをいう。なぜ、そこで悔しがらない。驚かない。だって「前例がない!」とまで言っている。「世の中甘くない!」とも言われた。それを実現したのだから、「世の中甘い!」ということなる。前例を作った訳だ。だが、彼らは驚かない。後悔もしない。「いろいろ言ったけど、凄いな〜」と評価もしない。

 ここから言えること。「前例がない」とか「世の中厳しい」とか偉そうに説教している人は、それほど真剣に相手のことを考えている訳ではないということだ。先に、忠告、アドバイスの背景として「応援したい」「傷ついて欲しくない」という優しさを上げたが、それほど深い優しさとかではないのだろう。たぶん、「優しさ」というより、「御節介」という方が近いだろう。

 だが、その種の人たちのアドバイスや忠告を無視すると、

 ときには相手を怒らせてしまうことがある。「こんなに心配しているのに!」「だったら勝手にしろ」「親切で言っているのに」大きなお世話であれこれ言っておいて、なぜ怒り出すのか? もちろん、いろんなタイプはいる。本当に真剣に忠告している人もいるだろう。でも、その人は経験がないこと、自分の知らない世界のことを想像で語っているだけ。また、それを成し遂げても、先の先輩のように「よかったじゃん」程度かもしれない。

 では、その種のお節介な人たちは、どんな人に御節介するのか? 考えたい。これは以前の記事で書いた。Facebookでいえばプライベートが分かり、がんばっている人。応援したくなる人に対して、多くの人は声援を送る。それが次第に、御節介になり、忠告になり、説教になる。

 僕も子供の頃。誰だか分からないオヤジに説教された。ま、先方は僕のことを知っているんだろうが、正月にしか会わない親戚を僕は覚えてはいない。先方も幼い頃から知っている子供だから、あれこれいう。自分が知らない世界のことを想像だけで断定して説教する。そんな大人が昔から嫌いだった。が、大人になってからも、映画界で仕事をするようになってからも、その種の大人はいた。

 何かに挑戦しようとすると、

 相談もしていないのに、あれこれ忠告して来る。「お前のためだと思っていうんだけどな〜」と言い出す。「だったら言わなくてもいい!」と拒否したこともある。そうすると「親切で言ってんだぞー!」と怒り出した。これは何なのか? たぶん、人の習性と思えて来た。

 人は「自分が役立つ存在」と思いたい。よく知った人が困っていると助けたくなる。これはいいこと。優しさだ。でも、自分が役立つ存在だと思いたいので、自分の経験にないこと。知識のないことまで努力して助けようとする。気持ちは麗しいが、実際は役に立たない。それどころか、やる気を削いだり、邪魔していることになる。相手が拒否すると「親切で言っているのに!」と怒り出す。理由は自分の好意を否定されるからだ。

 ただ、そのメカニズムで、誰も悪意がある人がいないのに、もめ事になりトラブるが起こる。憎しみ合いことにもなる。そもそも、出来もしないことを忠告したり、説教したりする方が悪いのだが、そのような人はとても多い。そして悪意はなく、「優しさ」を背景とした行動。「自分は人の邪魔をしている。大きなお世話だ」とは気付きにくい。しかし、それが人なのだ。


IMG_2287.JPG



 では、どーすれば問題が起きないか? 

 僕の場合でいうと、高校時代に「将来、映画監督になる!」なんて言い出さなければよかったのだ。そうすれば大人たちが「世の中甘くないぞ!」とか「才能あるのか?」とか説教を始めなかった。まじめに受験勉強をし、大学に進学していれば、大人たちは応援し、喜んでくれたのだ。

 映画界で仕事をしてからも「自分で製作費を集めて監督する」なんて言い出さずに、当時やっていた助監督やADの仕事を続け、チャンスが来たときに監督をすればよかったのだ。そうすれば、あれこれ言う人はなく、監督デビューしたときは、祝ってくれたはずだ。

 つまり、人がやらないことをやると、大人たちは、あれこれ言って邪魔をする。何なのか? たぶん、それが日本の社会の本質だろう。 まわりの人がしないこと。「映画監督になりたい」とか「自分で製作費を集める」とか、人がしないことをすると、何ら迷惑がかかる訳でもないのに、親でも先輩でもない人たちまで、あれこれ意見し、止めようとする。

 なぜか? 心情は先ほど説明した通りに「優しさ」から来ているが、非常にネガティブな行動であり、新しい何かをしようとする人を阻害し、潰そうとするものだ。別のいい方でいうと、これが「村社会」ではないか? 人と違うことをする。新しいことを始めると、毛嫌いし、排除しようとする。一見「親切」からスタートしたように見える「お節介」というのは、村社会の安定を維持するためのメカニズムなのではないか?

 実際、アメリカ留学中にも、

 同じ発言をしたことがある。「将来は映画監督になりたい」そのときの反応は日本とは180度違うものだった。「凄い」「いいぞ」「がんばれ」「応援する」「ハリウッドの友人を紹介するよ」誰もが前向き、忠告したり、説教する人は誰もいなかった。そのことから、日本のそれは、非常に日本的な背景から来るものと痛感した。

 同時にそれは村という社会を守るための、力にもなっていることも感じる。村の中で勝手なことを始めると、いろんな弊害が出る。だから、始める前に止める。新しいことを始める奴がいると、それを真似たり、あとに続いたりする人も出て来る。村の調和が乱れる。だから、潰す。そういうメカニズムではないか? それを個人個人は「村の調和のため」とは思わず、「本人のため」と思い説教する。見事な言い換えであるが、危険な発想だ。

 オウム真理教で、教団の邪魔になる者を

 「殺す」とは言わず「ポワする」と言い換えて実際は殺す。それも命を奪うのではなく、相手を解放するとか、功徳を積ますという発想に置き換えてしまう。だから、悪いことをしている訳ではないという考え方。でも、実際は都合の悪い人間を排除するということ。これに似たようなもの感じる。

 では、日本人はなぜ、意識せずに、そんなことをするのか? ひとつは江戸時代から村社会の習慣。それが今も日本人の中で生きている。さらに学校教育。同じ制服を着て、同じ髪型。同じ学科を勉強して、同じように良い成績を求める。そんな学校生活のあとは、サラリーマン生活。同じようなスーツを着て。似たような髪型で、スタンドプレーはしない。目立ってはいけないという社会生活の中で、新しいこと。前例がないことをしてはいけないという意識を持っているからだろう。

 その結果、彼らは新しいこと&前例のないことをする者がいると、あれこれ忠告や説教をして、その行動を止め、潰し、排除しようとするのではないか? 本来の目的である「村社会の維持」を意識せずに、本人のために忠告していると思い込む。それが背景であり、メカニズムだと思える。とすると、なぜ、日本の教育はそんな形となったのか?気になる。もしかすると、そんな閉鎖的な日本人を育てるのが目的のひとつではないだろうか?

IMG_2623.JPG


 誰が指示しなくても、自発的に新しいことをする人を淘汰する村社会システム。その背景には教育がある。では、その教育はどのようなものか? 上から与えれたことを疑わず、ひたすらその作業をするというのが日本の教育である。暗記中心。考える力はあまり要求されない。つまり、与えられたことを高い精度でこなす優秀なサラリーマンを育成するものだ。その成果が上がり、日本は経済大国になったが、与えられたことしか出来ないので、激動の時代になると、次々にアジアの国々に追い抜かれてしまったのだ。

 つまり、勉強をしていい成績を取る。

 そしていい大学に行き、いい会社に就職する。それが日本という村社会で推奨された生き方だっだ。その中で人とは違う生き方をする。自分なりの夢を追い掛ける者が現れると、昔の村社会のように秩序を乱す、間違っているという意識が生まれ、あれこれ忠告し、止めようとする者が出て来る。「役者や歌手になるなんてダメだ。真面目に勉強して会社員になれ」結局、そう言いたい訳だ。

 その意味するところは「国が決めた教育通りの生き方をしろ」「優秀なサラリーマンを目指せ」ということなのだろう。軍国主義時代と同じ。「お国のために死ね」それが尊いこと。「戦争に行って死ぬ」それが国が国民に求めたこと。でも、国民はそれを信じ、それこそが日本人の姿だと思い「戦争反対」とかいうと「非国民」といって、憲兵が来る前に国民が自らの手でその人を糾弾した。それと同じ構図ではないだろうか?

 別の角度から考えると分かりやすい。

 例えば「俳優になる!」ではなく「早稲田大学を受験する!」と言う。かなり入学がむずかしい大学だ。その子の学力を知る人が聞けば「無理じゃないの?」というかもしれないが、多くの大人は「そうか、がんばれ!」という。なぜ、反対しないのか? 近所に芸能人がいないので、芸能界がよく分からないというのと同じで、近所に早稲田出身の人がたくさんいる訳ではない。

 これも先と背景が同じ。「映画界の大変さを知らない」=「早稲田に合格する大変さを知らない」なのに一方は「やめろ」といい、一方は「がんばれ」と応援する。なぜか? 大学に進学することは村社会のあり方に沿っているからだろう。俳優になる。歌手になる。映画監督になるという行為は、教育が求めるものではない。求められるのは、与えられた勉強して、いい大学に行き、いい会社に入る。それに逆らった生き方をしようとすると、誰が命令する訳でもないのに、よってたかって否定し、従来の生き方をするように指導するのだ。

 ここまで来ると、もうひとつの答えを追加できる。

「なぜ、夢を語ると多くの人が否定しにくるのか?」同じ高校生だとする。「俺は俳優になりたい」と夢を語ると、同世代はこう思う。「僕だって夢はある。でも、現実は厳しい。だから、真面目に勉強している。スキでやっている訳じゃない。なのに、こいつは何、気楽なことを言ってんだ? 現実を知らないんじゃないか?一言言ってやれ」と思うのだ。

 そして大人は「俺たちだって嫌々、勉強して大学に行って、今は会社員やってる。好き勝手できない。それが現実だ。この子はそれが分かってない。勉強をしたくないから、俳優になるなんて言っているんだ。現実逃避だ。これは説教してやらないと、将来のためにも良くない」と考える。

 だから、俳優だ。歌手だ。映画監督だと言われると腹が立つ。世の中嘗めていると思う。「その種のことが出来るのは、もの凄い才能のある特別な人だ。その辺の連中ができることじゃない」と思い込んでいる。夢を語られるとイラつく。「俺だって我慢して生きてんだよ。働いてんだよ!」と感じる。それを押さえて「世間知らずな、こいつのためだ...」「これは優しさだ」と思って忠告。説教するのだろう。つまり、

 「世の中は真面目に勉強して、少しでもいい大学に行き、少しでもいい会社に入り、嫌な仕事も我慢して働く。それが安定に繋がる。それが大人の考え方。人の生き方なのだ」

 と考えているのだ。だが、彼らは間違っている。それは国の政策であり、教育方針でしかない。「大人の考え方」や「人の生き方」ではない。考え方はいろいろあるし、生き方も多種多様。国の政策を全面的に受け入れているだけなのだ。それを「大人」「人の生き方」と考え、絶対的なものだと信じ込んでいる。だから、他人に「現実を見ろ」とか「甘い」とかいうのである。


 やはり、軍国主義と同じ。

 戦争反対という人を「非国民」と批判する。「戦地で玉砕することがお国のため!」と信じ込む。或は「違う」と思っても言えなかった時代。それと同じ構図なのだ。それが今の日本という国なのだと感じる。つまり、優秀なサラリーマンを育てるのが国策。それに逆らうと、多くの人が粛正。皆、同じ目標を持ち、同じ生き方をしようとする。他人と歩調を合わせる。それが多くの日本人の生き方なのだろう。何だかSF 映画のようだが、いろいろ突き詰めて行くと、それが日本の教育であり、システムであるように思える。そのベースが村社会なのだ。

 さ、ここで2つの問題が出て来た。1つは、そんな村社会の中で行きて行くにはどうすればいいか?ということ。もう一つは、そんな村社会が嫌な者はどうすればいいか?という2点である。それは次の章で考えたい。

 つづき=>http://cinemacinema.blog.so-net.ne.jp/2016-08-24-2






朝日ーレンタル中.jpg

 
nice!(0)  コメント(0) 

友人曰くー「映画監督がFacebookをすること自体が悪い!」えーー?」 [my opinion]

IMG_1702.JPG


 少し前に友人と会った。長年の友達で今も映画ファンである。その友人と飲み屋での会話。

友人「Facebook辞めたんだって?」

僕 「辞めてない。休んでるだけ」

友人「ブログの記事読んだけど、有名監督になるといろいろ大変だなあ〜」

僕 「有名じゃないよ〜。まだまだ無名」

友人「まあ、お前はイラつくだろうけど、あれこれ言って来るFacebook友達の気持ちも分かるな〜」

僕 「何で〜?」

友人「お前がいうようにFacebookは近所の喫茶店のようなもの。そこに映画監督が毎日来ている。そりゃ有名監督でなくても、興味持つさ!」

僕 「そう〜?」

友人「声をかけてみたくなるさ〜」

僕 「うーーーん」

友人「だって、映画監督なんかと気軽に話せる機会なんてないだろう?」

僕 「まあ、そうだけど......無名だよ〜」

友人「無名でも映画監督だからね〜。俺なんか昔から友達だからいいけど。普通、映画監督の友達なんていないだろう?」

僕 「まあね〜」

友人「それに有名俳優とも何人も仕事してるだろ?」

僕 「まあなあ〜」

友人「凄いと思うよ〜。あんな凄い人たちがお前の映画に出てくれてんだぜ〜」

僕 「うん。皆、よく出てくれたよなあ〜」

友人「そりゃ、シナリオがいいとか、お前の以前の作品見て出たいと思ったとかだろ?」

僕 「まあねえ」

友人「そこは凄いと思うよ。応援もしたくなる。あれこれ、言いたくなる」

僕 「それが問題!」

IMG_2575.jpg


友人「でも、何か役に立ちたいと思うさ」

僕 「自分の知らないことを助言するか?」

友人「いつも喫茶店で会う映画監督だよ。何か応援したくなるさー」

僕 「だったら、自分の知らないことをあれこれ批判するのはなあ〜」

友人「だから、役に立ちたいんだって!」

僕 「だから、役に立たないんだって。気持ちは嬉しいけど...」

友人「Facebook友達って田舎のおばちゃんみたいなもんで、あれこれ言いたくなるんだよ」

僕 「分かるんだけどさ〜。上から目線で指示したり、批判したり。ダイレクトメールで説教して来る人もいる....悪い人じゃないの分かっているけど、会ったこともない。相手の年齢や職業も分からない」

友人「ふーーん」

僕 「中には顔写真さえ出してない人もいて....つまり、覆面したような人にーもっと広い心を持ちなさい!ーって説教されてもなあ。注意すると『親切で言っているのに!』と怒り出す」

友人「一般の人はそんなものだよ。近所の喫茶店に有名な映画監督がいると聞けば、俺でも見に行くよ」

僕 「有名じゃない〜」

友人「そうでもないぞ。もう4本も劇場用映画撮っているし。日本全国で何十館もの映画館で上映されてるし、海外でも毎回上映されるだろ?」

僕 「でも、大ヒット作や誰もが知る有名作品はない」

友人「お前が思うより、知名度あると思うよ〜」

僕 「そうなかあ〜」


IMG_2911.JPG

友人「お前は自分が無名監督だと思っている。が、多くの人はそう思っていない。国民的俳優たちと仕事しているだけで、スゲーになるのぉ〜」

僕 「そーかなー」

友人「そんな奴がFacebookで毎日、記事アップするのがよくないんだよ!」

僕 「えーーー?」

友人「Facebookって、そういうメディアだろ?」

僕 「最近はそんな酷いコメントは、なくなったし........いい人だって多いんだぞ」

友人「いや、Facebookを続けるお前が諸悪の根源だ!」

僕 「え〜」

 そんな会話をした。友人のいうことも正しいかもしれない。そう言えば、今年、都内で2回。「あ、監督だ!」と言われた。

 実際はまだまだ無名なのだけど、あれこれ言われる仕事であること自覚せねばならないのかも? そんなことを考える機会だった....。友人に感謝。






朝日ーレンタル中.jpg
nice!(1)  コメント(0) 
前の10件 | - my opinion ブログトップ