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【境界性パーソナリティ障害を勉強中。これが本当に病気?凄過ぎて感想が書けない......】 [昨年アクセス数300超え記事紹介]

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【これが本当に病気?凄過ぎて感想が書けない......】

境界性パーソナリティ障害と呼ばれる病気を勉強。その理解度確認のため、文章にしてみた。患者は若い女性が多く、男性の4倍ほど存在する。人口の2%といわれ、決して特別な病気ではない。が、通常は「変なヤツ」「わがまま」というふうに見え、気づかれないことが多い。

いろいろと聞いたり、読んだりした例を上げてみる。例えばサークルで、職場で、何らかの機会に、「素晴らしいです!」「あなたのような人は初めてです」「感動しました」「応援させてください」などと、若い女性が絶讃。その男性に近づく。男なら嫌な気はしない。女性はさらにFacebook等で「いいね」を連発。毎日のように書き込みをしてくる。「お仕事がんばって下さい」「今日もお疲れ様でした」「勉強になりました!」「感動しました」「応援しています」気の利いたコメントをしてくる。これも嫌な気はしない。さらに好感を持つ。

そんなこともあり、職場やサークル活動等で距離が近づき、急激に仲良くなる。彼女は自分が「いかに健気にがんばっているか?」をアピールしながら、次第に自身がいかに苦労しており、大変な状況にいるか? 可哀想な存在であることもアピール。それを知ると、辛い立場なのに、明るい笑顔でがんばっているのだと思え、さらに親近感を持ってしまう。

彼に近づくと同時に、周りの友人や関係者にもアプローチをする。同じように「自分がいかに明るいいい子であるか?」をアピール。彼の仕事関係や友人関係に根を張って行く。そのうち、少しずつ要望を出し始める。それは小さなことに始まる。最初は「私なんかの話を聞いてくれてうれしい!」といったりするが、次第に長話になり、何時間も彼女の話を一方的に聞かされる。或るいは時間帯を気にせずに電話してくる。

「***をしてほしい!」「今から来欲しい!」というように、要求は時と場所を選ばず大きくなり、それに応えようとすると、仕事や友人関係に支障を来すことが出て来る。だが、その要求を断ると、手の平を返したように激怒、批判、攻撃する。そのひとつの手法が、友人関係にウソの情報を流すこと。「彼に酷いことをされた。こんなに尽くしているのに....本当に悲しい。私はどうすればいいのか? 死にたくなる」というような自分が被害者であるという情報を作り上げて、いい触れ回る。

友人の間では「健気で明るい子」という印象。他の人には無茶な要望はしないので、彼が悪者になる。「お前、あの子を傷つけるようなことをするなよ!」「酷いぞ、それは!」と友人たちから批判、注意を受ける。が、多くの人は彼女のウソに気づかない。或いは会社関係者にウソを伝えて、彼の仕事に支障が来すようにする。そうやって追いつめて行く。

彼女の要求を聞かないと、とんでもないことになると悟り、彼は要求に従わざるを得なくなる。でないと、友人関係も仕事も大変なことになる。そして要求はさらにエスカレート。耐えられなくてなり、逃げようとすると「今、薬を飲みました。さようなら...」というようなメールが来る。駆けつけると本当に薬を飲み、倒れている。間一髪助かったが、逃げたら本当に死ぬかもしれない。「あいつのせいで彼女は自殺した」なんて言われたら、職場にもいられなくなる。だが、まわりの友人たちは「いい子じゃないか?」「優しくしてやれよ」「痴話げんかもほどほどにね」と完全に勘違い...。

こうして彼女は暴力も、凶器も使わず、がんじがらめにして、自分の要求を聞かざるを得ないように追い込むのである。やがて、彼は限界を超えて、全てを捨てて逃げ出すが、そのために友人関係は壊れ、職場にも影響し、信頼も仕事も失ってしまう。だが、まわりは彼女の病気が全ての原因とは想像もせず。彼女はまた次のターゲットを探す....。

補足すると、もともと絶讃したり、賞賛したりするのは種まき。Facebookで健気なところをアピールしたり、辛い過去を告白するのも取り込むための罠である。そして、彼のまわりの友人たちにも餌をまき、自分の「取り巻き」にしてて、攻撃のときに利用する。さらに、彼に逃げられたときに、その「取り巻き」から第二のターゲットを選ぶための種まきでもある。

あと、あれだけ批判していたくせに、何事もなく「お久しぶりです」「お元気ですか?」「いつもありがとうございます」と連絡してくるのも特徴。それで「あのときは体調でも悪かったんだろう」と付き合いを再開すると、同じ悲劇の繰り返しとなる。

そう聞くと「それって、単なる性悪女じゃねえの?」と言われそうだが、そのせいで病気であることに気づかない人が多いのだ。ボーダーライン人格障害というのは、幼い頃の悲惨体験が原因といわれる。幼少期に親から虐待を受けた。愛情を受けずに育ったために、心に大きな傷ができてしまい。その傷を癒すために、強い愛情を求めるのである。

だが、それを埋めるには並大抵な愛情では足りず、「この人は他を犠牲にしても私のために尽くしてくれている」という強い愛を求めるために、相手の仕事や人間関係を破壊することになるかもしれない要求を無意識にしてしまう。客観的に見れば悪意があるとしか思えないが、本人にはその気はまったくない。その要求が満たされないときの攻撃も「自分が捨てられるのではないか?」という恐怖からの反応であり、不良が非行をして親の関心を惹こうとするのに似た行動である。

ここしばらくの勉強で、そんな病状を知ったとき、僕自身「本当にこれが病気か?」と驚いた。まるで「氷の微笑」のシャローン・ストーン。「危険な情事」か「ミザリー」だ。精神病というと「気が狂っている」と思われがちで、錯乱状態を想像しがちだが、それは違うこと。以前に勉強した「統合失調症」や「双極性障害」で知っている。が、今回の「パーソナリティ障害」は本当に知能犯としかいいようのない、見事な方法論で相手を取り込んで操り、失われた愛を取り戻そうとする。「グリム童話」に出て来る悪魔のように、見事に人間を罠にはめる。

ある人の指摘では、少し前に離婚騒動があった芸能人一家。その妻がボーダーであったと指摘する。妻は「きっと彼は分かってくれる。私は今も愛している」というのに、夫は「俳優業を廃業してでも、別れたい」と発言していた。仕事を辞めてでも別れたいとはどういうことか?と思っていたが、妻がそれなら、腑に落ちる。全力で逃げないとならない状態だったのだ。そんなふうに外から見ていると、まったく本質に気づかず、痴話喧嘩と思われる。或いは「いい子じゃないか?」「そんな心配することないだろう?」と友人たちには言われるが、最後は全てをめちゃめちゃにされ、失うこともある。

では、どうすればいいのか? それについても、いくつかの文献を読み、専門家にも話を聞いた。「彼女は可哀想な人だから、僕が何とかしてあげたい」と思ってはいけない。その考えが、より問題を大きくする。「愛があれば」なんて考え方が最悪の結末を呼ぶことがある。

「とにかく関わらないこと」だといわれた。無視すること。そして、彼女の関心がなくなるのを待つこと。もちろん、優しくするとか、コミュニケーションを持てば、相手は「まだまだ、行ける」とエスカレートする。では、反対に厳しく批判する。中傷するとどうなるか? これも相手は喜ぶ。つまり、褒めるのも批判するのも、相手に関心があると解釈されるのだ。批判されれば、これまた被害者を演じ「酷いことを言われた」と、まわりの人たちにいい触れ回ることができる。

若い女性が「彼に捨てられたので死ぬ」と遺書を残し、自殺未遂をすれば、世間もまわりも男を批判する。「明るい元気な子なのに可哀想だ」と彼女は同情を集める。どんな結末でも新聞報道等では精神病は伝えられない。繰り返すが本当にスゴイ。完全犯罪のようだ。とても病気が成す技とは思えない。だから、逃げるしかない。関わらないこと。まだまだ、疑問に思うところもあり、勉強を続ける。


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アンコールで再掲載part2をアップ。好評でした。 [昨年アクセス数300超え記事紹介]

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 昨年、9月以降で300アクセスを超えた記事

 その数13本ほど。

 好評で、どれも多くのアクセスを頂いた。

 余裕があれば、他でも人気のものをアンコール掲載してみたい。

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フランスの無差別テロから、日本人が考えねばならないこと [昨年アクセス数300超え記事紹介]

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[昨年アクセス数300超え記事紹介]


【フランスの無差別テロから考えねばならないこと】

どこかの国の首相はいった「アメリカとより強い関係性を持つことで、戦争の抑止となるのです」そうやって、安保法制を無理矢理進め、閣議決定した。昨日、そのアメリカと共に空爆を決断。実行したフランスで無差別テロが起こり、100人以上の市民が殺害された。アメリカと関係性を持てば平和が維持できるのではなかったか?  

今回の襲撃でパリの寿司屋も狙われた。これは「次は日本」という警告に思える。この惨事。まさに日本の近い将来の姿。我々が選んだ議員たちが、政府で決めた安保法制の先にあるのは、日本に恨みのない人たちが、日本人の命を狙うという現実。「戦争しない国・日本」が「戦争できる国」になった結果が、この事件により明確になったと言える。

日本は戦争できる国になるのではなく、紛争を止める国こそ目指すべきではなかったか? それを戦争ができる国にした人たちが誰なのか? それを選んだのは誰か? 「投票したい党がない」と多くの人が棄権したことで、誕生した政府。日本人全てに責任がある。

では、どうすればいいか? それは小手先の経済政策にダマされずに、次の選挙で戦争をしたい党には絶対に投票しないこと。忘れずにいること。アメリカに加担して自衛隊を派遣してもテロは増えるばかり。今回、それがよく分かった。結果、日本国民の命を危険にさらすだけ。別の方法を模索すべきなのだ。


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時代は変わり、環境が変化する中。ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、どこへ行くべきなのか? [昨年アクセス数300超え記事紹介]

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[昨年アクセス数300超え記事紹介]

【時代は変わり、環境が変化する中。ネットに縛られていることに気付かぬ僕らは、どこへ行くべきなのか?】


最近、いろいろと考えることがある。ネットが普及したことで、それまで情報発信の最大手といえたテレビが、いかに都合のいい情報だけを流していたか?が分かって来た。特に311以降。報道番組でさえ、商業主義であること。それは新聞も雑誌も同じだが、疑ってかからないと、ある種の人たちに利用されているだけだと思える。

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ここ数年、スマホについて考えていた。当たり前のように使っていたが、実は必要ないのではないか?と思えている。例えば、友人と喫茶店等で会うと、まずスマホをテーブルの上に置く。電話がかかってくると「ちょっと、悪い!」と電話に出る。急ぎの用ならいいが、聞いていると単なる友達からの連絡。なぜ、時間を裂き、交通費を使って新宿や渋谷まで出て来た友人(私)と話しているのに、それを遮り電話に出るのだろう?

或は、複数で話していると、必ず誰かがスマホでメールやFacebookのチェックをする。これも急ぎの仕事で、常に連絡があるというのなら分かるが、そうではなく。人の話を聞きながら、何かメールが来ていないか? ニュースはないか?とスマホをいじっているだけなのだ。

家族でテレビを観ながら食事する人たちはいる。しかし、友人と会っているとき、電話に出たり、メールやFacebookを確認するのはどうなのだろう? 何か優先順位を間違っていないだろうか? また、若い人たちは友達からメールをもらったら15分以内に返事をするという。でないと、友達関係がむずかしくなるからとか。或は、何かで知り合った人がよく「Lineで繋がってもらっていいですか?」と訊かれる。

これには背景がある。かなり昔に書いたが、今の日本人。若者だけでなく、異様なほど絆を求める。「友達」「仲間」であることを確認しようとする。それは無意識にアイデンティティの確認になっている。寂しさや孤独感の解消に繋げようとする。「こんなにたくさんの友達がいるんだ」という思いで自分の存在を確認。一昔前のプリクラも同じ。Facebookがこれだけ流通したのも同じ理由だろう。1000人友達がいる。と自慢するのも同じ理由だ。

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確かに、一人一人と連絡を取り合わなくても、**君はどーしている? ***ちゃんは今日も仕事か?と近況を知れるのは便利だが、いつの間にか、それも自己確認の強迫観念となり、一日に何度もFacebookを見てしまう。最初は便利からスタートしたメールやFacebookにいつの間にか振り回され、スマホが生活の中心になり、依存症になっている人が多いことに気付く。

その背景にあるのは不安感。1人ぼっちじゃないか? 私だけ置き去りになっていないか? 僕のこと誰も気にかけてくれてないのでないか? アイデンティティが確認し辛い時代。その不安を癒すのがメール。それをバージョンアップしたのがFacebook。Twitterも同じだ。「渋谷ナウ」とか意味もなくtweetするのも「私は渋谷にいるよー。私のこと。みんな忘れないでねー」という心のメッセージだと思える。

自分の存在を、理解、確認、してもらうための行為。スマホはそれを外出しても確認できるツールとして無意識に認知されたことで、普及し、流通した側面が大きい。もちろん、先に書いたことは潜在意識での話であり、それを意識している人は少ない。そして僕の説明もかなり乱暴であり「俺はそんなじゃねえよー」と反論したい人もいるだろう。しかし、人の根源的な欲求に「人からの認知」というものがあり、それを巧みに利用したのがFacebookなのだ。

Facebookによって「友達」が増えたように感じるが、現実の代償作用でしかなく本物の友達ではない。なのに多くの人は現実の「友達」と同じ対応やアプローチをし、求めててしまう。そこですれ違いが起き、互いが傷つく。起きなくていい問題が起こる。仮想現実の中に癒しを求め、さらに孤独感を増幅しているような気がする。

そんなことを書きながらも、僕自身もスマホ依存症になっているように思える。最初は映画宣伝のツールであり、書いた記事や情報の反応を知るために、頻繁に確認作業をしていた。が、考えてみると1時間おきに確認をする必要はない。その夜にまとめて見ればいいのだ。なのに気になって、何度もスマホを見てしまう。

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先日も書いたが、その記事執筆や情報発信に毎日4時間以上が取られている。映画宣伝は間もなく終了する。そして、いずれ書くが今回の宣伝活動を通じていろんなことを感じた。次のステップに上がらなければならないと思えている。そのために、今後も4時間も時間をネットに費やしていてはいけない。スローダウンして行かねば...と考えている。

そしてスマホを持ち歩き、いつでも連絡が着く。必要性が本当にあるのか?と感じ始めた。待ち合わせのときは便利だし、撮影前ならスタッフからの緊急連絡もあるが、通常はない。なのに、スマホを持ち歩くと、外出中に何度もネットを見てしまう。昔は雑誌や文庫本を持ち歩いて読んでいたのだが、今はスマホを見る。電車に乗っても漫画雑誌を読んでいる人はもうほとんどいない。

何か大きな力で、スマホという端末を与えられて身の回りや友達関係に執着することで、大切なものを見逃しているのではないか? 目を反らされているのではないか? そんな思いがあり、先日、スマホを解約した。そして、考えているのがFacebookの存在。映画宣伝の上ではとても有効だったが、いろいろ面倒なことも多い。

Facebookを有効活用しているつもりだったが、ふと気付くとFacebookに振り回されているのではないか? と思えて来る。このことはまた機会があれば書くが、どーも、日本人は機械によって大切なことを見失っているように思えている。それはまだ具体的には書かないが、物語のテーマにもなるので、あれこれ考えている。「向日葵の丘」を観てくれた方は何となく想像が着くだろう。

そんなことをあれこれ考えているのだが、時代は変わり、環境が変化する中、僕らはどこへ向かうべきなのか? 問われる段階に来ていると思える...。


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「朝日のあたる家」の太田監督の新作「向日葵の丘」予告編ロングバージョンを配信。 [昨年アクセス数300超え記事紹介]



「向日葵の丘」予告編ロングバージョンを配信。

この数日。予告編を編集していた。映画が公開されたあとに配信されるタイプのもの。公開前は「ここぞ!」という場面は予告編にはいれない。80年代の角川映画のように、泣ける感動場面だけを抜き出して予告編にすると、本編を見たときに感動できないからだ。

しかし、「向日葵」公開から間もなく3ヶ月目に入る。観たい人はもうかなり観てくれている。そこで名場面を多めに入れたロングバージョンの予告編を作ってみた。ハリウッド映画でも、この時期になると、その種のものを公開する。

それによって、先の予告を観ただけは「観たい!」と思わなかった人も興味を持ってくれる。それとすでに観た人も感動場面を再見して「もう一度、観たい!」と思ってもらうのが目的。

それでもまだ予告編で未公開の感動シーンはあるし。紹介する涙の場面も一部に過ぎない。映画館で観てもらえれば、感動してもらえる。その予告編。昨夜、テスト的に配信したら大好評。
完全版を本日、配信。よろしくお願いします。

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「朝日のあたる家」がバンクーバーで上映! [昨年アクセス数300超え記事紹介]

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[昨年アクセス数300超え記事紹介]

本日、10月2日(土)僕の前作「朝日のあたる家」がバンクーバーで上映された!

連絡が入り次第。詳しく報告!

すでに、ロスアンゼルス、アリゾナ、シンガポール、

ドイツ、ニュージーランド、バリ島、等で上映。

今回はカナダ!

「朝日のあたる家」まだ世界で上映が続いている。

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「向日葵の丘 1983年夏」舞台挨拶を動画で公開中! [昨年アクセス数300超え記事紹介]

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[昨年アクセス数300超え記事紹介]


「向日葵の丘 1983年夏」舞台挨拶を動画で公開中!

大阪十三シアターセブン。

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11月7日(土)公開初日の舞台挨拶。

満員御礼!

動画で紹介。




仲代奈緒さんX太田隆文監督

「キャスティングの意味。仲代さんに出演依頼した理由」「山本太郎さんの話」等

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2年前の今日。山本太郎さんと舞台挨拶! [昨年アクセス数300超え記事紹介]

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[昨年アクセス数300超え記事紹介]

2年前の今日。

2013年9月30日は

「朝日のあたる家」の公開記念ー舞台挨拶で

山本太郎さんとトークをした。

あれからもう2年か〜

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1時間働けば時給がもらえるのが当然!ーと考える若者たち?! [昨年アクセス数300超え記事紹介]

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[昨年アクセス数300超えーこれは1万件超えだけど記事紹介]

【1時間働けば時給がもらえるのが当然!ーと考える若者たち?!】

 友人が大学生の頃。こんなことを言っていた。「普通の会社に就職するのは嫌だ。映画の仕事がしたい。月20万もらえるなら脚本家の仕事をしてもいいんだけどなあ」?????当時、僕はすでに映画界で働いていたので、もの凄い違和感があった。が、脚本家の求人なんてある訳がなく。彼は普通の会社に就職した。

 友人だけではない。ときどき専門学校に呼ばれ特別講義をする。そこでこんな質問を受けた。「映画監督業は食えますか?」「月いくらの収入がありますか?」そんな質問が出ること自体に腹が立ち正直に答えた。「監督業はブラック企業を超える。アルバイトをすれば時給900円とかもらえるが、監督業は時給50円。いや、日給50円。月収50円ということもある。それが監督業だよ」

 そういうと生徒たちは「映画監督なんてなるものんじゃないなあ」という顔をする。だが、それが現実。年収ゼロ円という監督もいる。奥さんに食わせてもらっていたり。アルバイトで生活している先輩もいる。監督業は厳しいという話ではない。そもそも、大学生の友人や専門学校の生徒の発想が間違っていると言う話をしたい。

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 彼らの発想はバイトが基本になっている。1時間働けば900円。たいていのバイトはそんな感じ。1日10時間労働で9000円。1ヶ月に20日間働けば18万。「それならどーにか生活できるかなあ?」という考え方だ。しかし、それはバイトや会社員の世界での価値観。映画の仕事は監督でも、脚本家でも、カメラマンでも、技術がいる。質問をした生徒たちは、まだ何も技術を持っていない。にも関わらず1時間働けばいくら? 1日働けば***円という計算ばかりしている。

 何の技術もない彼らが撮影現場に来ても、何の役にも経たない訳で、1時間いくらどころか、1円たりとも払われることはない。いや、現場に呼ばれることすらない。そのことに気付かず。「監督をやれば、いくら? 脚本家なら**万円?」と時給計算をしている学生たちは、基本的におかしい。

 バイトというのは、ちょっと教えてもらえれば出来る仕事。特別な技術は必要ない。だから、1時間900円とかいう賃金をもらえる。だが、映画の仕事は誰にもでできるものではない。技術があった上にセンスも必要。それを持った人にギャラを払って働いてもらう。その違いを学生たちは理解せず。1時間働けば***円とバイトの感覚で考えるので、ズレてしまうのだ。

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 ベテランのスクリプターさん。彼女は若い頃からスクリプターの仕事をしたかったという。が、経験がない。そこで友人に頼み込み、ノーギャラで、それも見習いで撮影に参加した。1年仕事をしたがノーギャラ。何の技術も経験もない人に賃金は払われない。逆に本来なら彼女は現場でいろいろと学ぶのだから、授業料を払わなければならない。ノーギャラでもメリットは大きい。

 頼み込んで低予算テレビ番組の撮影に参加してもらい、1年間勉強しながら現場をこなした。が、彼女の本当の目的は映画のスクリプターだった。テレビと映画のシステムは違う。そこでまた1年間、見習いで映画撮影に参加。仕事を学んだ。今は一人前のスクリプターとして、それなりのギャラをもらっているが、映画の世界では、技術も経験もない者には1円たりともギャラは払われない。

 そもそも経験のない人は撮影の邪魔になったり。足を引っ張ったりすることが多いので、撮影には参加させてもらえないことが多い。1年間も現場で働いたということは、彼女がかなり優秀で頑張り屋だったということ。今の映画界に新人を育てようという思いはないし、低予算化の波で、役に立たない者はすぐに解雇というのが現状である。

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 さて、思い返してほしい。そんな世界に「月20万円もらえるなら脚本家になってもいい」という大学生。何の技術もない生徒が「監督業は月いくらもらえますか?」と質問。学生にありがちなバイト感覚でしかないことを理解してもらえるだろう。だが、これは映画の世界ばかりではない。一般の会社も昔のように、新入社員は業績を上げなくても、数年は月給もらって勉強というところは少なくなっている。何らかの技術やスペシャリティのない者は採用しない会社が多い。

 「月給は30万はもらわないとね!」とかバイト感覚で言っていると社会からはじき出されてしまうだろう。時間の切り売りをして、賃金をもらえるのは、アルバイトだけなのだ。その発想で「仕事」を考えてはダメ。「仕事」を得るためには、それなりの技術や経験が不可欠。映画界だけでなく、一般の社会もそうなって来た。

 大学の4年間。或は専門学校の2年間。バイトして、コンパして、旅行して、さあ、就職だ!といううときに、技術も経験もないと大変なことになるだろう。

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 最後に少し前に専門学校に行ったとき、出た質問を紹介する。

 「太田監督の撮影現場はボランティアでお手伝いしている人がいると聞きましたが、僕らも参加できますか? それから1日いくらもらえますか?」

 僕は答えた。

 「通常は撮影現場に一般の人は入れない。技術も経験もない人が参加すると、トラブルを起こしたり、隠れて俳優の写真を撮ったり、大変なことになることが多い。だから、よほど信頼できる人で、映画愛のある人。この映画を応援したい!という人だけを厳選。撮影の過程を経験、一緒にがんばることを楽しんでくれる人たちのみ。お願いする。その意味で君はダメ。ボランティア・スタッフでいくらもらえる?なんて質問する段階でアウトだ」

 その生徒はあとで「よく分かりました。ノーギャラでもいいので、手伝わせてください」といってくるかと思ったが「何だ、タダかよ!」という顔で帰って行った。バイトというシステムが若者たちに勘違いさせ、時代を逆行していることを改めて感じた。学校教育で与えられたことだけをやっていたら、社会に出て大変な事になる時代。なのに気付かぬ若い人が多い。悲しい話である...。

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